中日新聞・東京新聞掲載「平等に貧しくなろう」社会学者・東京大名誉教授 上野千鶴子氏の発言に関する意見、反論とりまとめ
Ⅰ.中日新聞・東京新聞掲載(2017.2.11)平等に貧しくなろう 社会学者・東京大名誉教授 上野千鶴子さん
日本は今、転機だと思います。最大の要因は人口構造の変化です。安倍(晋三)さんは人口一億人規模の維持、希望出生率一・八の実現を言いますが、社会学的にみるとあらゆるエビデンス(証拠)がそれは不可能と告げています。
人口を維持する方法は二つあります。一つは自然増で、もう一つは社会増。自然増はもう見込めません。泣いてもわめいても子どもは増えません。人口を維持するには社会増しかない、つまり移民の受け入れです。
日本はこの先どうするのか。移民を入れて活力ある社会をつくる一方、社会的不公正と抑圧と治安悪化に苦しむ国にするのか、難民を含めて外国人に門戸を閉ざし、このままゆっくり衰退していくのか。どちらかを選ぶ分岐点に立たされています。
移民政策について言うと、私は客観的に無理、主観的にはやめた方がいいと思っています。
客観的には、日本は労働開国にかじを切ろうとしたさなかに世界的な排外主義の波にぶつかってしまった。大量の移民の受け入れなど不可能です。
主観的な観測としては、移民は日本にとってツケが大き過ぎる。トランプ米大統領は「アメリカ・ファースト」と言いましたが、日本は「ニッポン・オンリー」の国。単一民族神話が信じられてきた。日本人は多文化共生に耐えられないでしょう。
だとしたら、日本は人口減少と衰退を引き受けるべきです。平和に衰退していく社会のモデルになればいい。一億人維持とか、国内総生産(GDP)六百兆円とかの妄想は捨てて、現実に向き合う。ただ、上り坂より下り坂は難しい。どう犠牲者を出さずに軟着陸するか。日本の場合、みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい。国民負担率を増やし、再分配機能を強化する。つまり社会民主主義的な方向です。ところが、日本には本当の社会民主政党がない。
日本の希望はNPOなどの「協」セクターにあると思っています。NPOはさまざまな分野で問題解決の事業モデルをつくってきました。私は「制度を動かすのは人」が持論ですが、人材が育ってきています。
「国のかたち」を問う憲法改正論議についても、私はあまり心配していない。国会前のデモを通じて立憲主義の理解が広がりました。日本の市民社会はそれだけの厚みを持ってきています。
(聞き手・大森雅弥)
<うえの・ちづこ> 1948年、富山県生まれ。認定NPO法人「ウィメンズ アクション ネットワーク」理事長。『ケアの社会学』『おひとりさまの老後』など著書多数。近著は『時局発言!』(WAVE出版)。
Ⅱ.『中日新聞』(2017年2月11日)「考える広場 この国のかたち 3人の論者に聞く」における上野千鶴子氏の発言にかんする公開質問状
2017.02.15 Wed
2017年2月13日
特定非営利活動法人 移住者と連帯する全国ネットワーク(移住連)
貧困対策プロジェクト
〒110-0005 東京都台東区上野1-12-6 3階 移住連内
TEL:03-3837-2316 FAX:03-3837-2317
E-mail: tkysachi@gmail.com(担当:髙谷幸)
株式会社 中日新聞社御中
上野千鶴子様
『中日新聞』(2017年2月11日)「考える広場 この国のかたち 3人の論者に聞く」における上野千鶴子氏の発言にかんする公開質問状
私たち移住連貧困対策プロジェクトは、この社会で暮らし、働く、外国人移住者とその家族の生活と権利を守り、自立への活動を支え、よりよい多民族・多文化共生社会を目指す個人、団体による全国のネットワーク組織・移住連のサブネットワークです。
2017年2月11日付『中日新聞』「考える広場 この国のかたち 3人の論者に聞く」における上野千鶴子氏の発言は、事実誤認と偏見にもとづくもので、看過できないものと判断し、以下の公開質問状をお送りします。問題は、上野氏が日本の移民の状況に無知であり、研究者として関連文献に目を通すような基礎的な作業すらしないまま、排外主義的な論理に取り込まれている点にあります。以下、上野発言の問題を質問状の形で指摘していきます。
1.「移民受け入れ」に対する無知と偏見について
上野氏は、「移民を入れて活力ある社会をつくる一方、社会的不公正と抑圧と治安悪化に苦しむ国にするのか」と述べています。これは以下の点で事実に反しており、何を根拠にした発言なのでしょうか。
・移民受け入れにより「社会的不公正と抑圧」が増大するのではありません。日本に存在する社会的不公正と抑圧が、移民に集中的にのしかかる可能性はありますが、これは移民を受け入れた結果ではなく因果関係が転倒しています。上野氏は、女性が増えたら、性的マイノリティが増えたら社会的不公正と抑圧が増大するからよくないといわれるのでしょうか。
・治安悪化は、日本において特に頻繁に語られる移民への謬見です。実際には、日本で移民人口が増えたことによる治安悪化はまったく起こっていません。「治安悪化」というデマは、1990年代後半に警察とメディアが広めたもので、上野氏もそれを信じ込んでいるようです。今回の発言は、自らそうしたデマを広めていますが、それについてどうお考えでしょうか。
2.労働開国にかじを切ろうとする日本?
「客観的には、日本は労働開国にかじを切ろうとしたさなかに世界的な排外主義の波にぶつかってしまった」という発言における「労働開国にかじを切ろうとしたさなか」とは、いつ出されたどのような法・制度・政策指針を指していますか。日本では、90年入管法改定において、日系3世とその家族に「定住者」の在留資格を認めたことや、93年に設立された外国人技能実習制度により、すでに実質的な労働開国に踏み切っています。
一方、「世界的な排外主義の波にぶつかってしまった」と、「排外主義」があたかも日本の外からやってきたかのような発言をされています。日本において、植民地主義支配から続く在日外国人にたいする差別、近年、ネットや路上ではびこっているヘイトスピーチについてどのようにお考えでしょうか。
なお、移民制限的な政策をとっているかにみえる国であっても、実質的には移民の流入が続くことは、移民研究上の常識です。「世界的な排外主義の波」と移民増加は並行して生じるもので、排外的な風潮により移民流入が制限されるという排外主義の論理を、上野氏は実質的に追認しているのではないでしょうか。
3.「日本は『ニッポン・オンリー』の国。単一民族神話が信じられてきた。日本人は多文化共生に耐えられないでしょう」という発言について
・2008年に国会の衆議院及び参議院において「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で採択され、日本が「単一民族」であることは公式に否定されましたが、「単一民族神話が信じられてきた」というのはどのような根拠にもとづいているのでしょうか。またこの発言こそが、「単一民族神話」を再生産していますが、その点についてはどのようにお考えでしょうか。
・現在日本には230万人を超える外国人移住者が暮らし、先住民や外国にルーツをもつ日本国籍者を含めると、民族的マイノリティはそれ以上になります。「日本は『ニッポン・オンリー』の国」というのは、どのような根拠にもとづいた発言でしょうか。
・このような、外国人移住者の増加や民族的マイノリティの存在の認知を背景に、各地で多文化共生の取り組みがすすめられてきました。2006年には総務省も「地域における多文化共生推進プラン」を策定しています。こうした取り組みには、民族的マイノリティ当事者のみならず「日本人」も多く関わっています。「日本人は多文化共生に耐えられないでしょう」というのは、いかなる根拠にもとづいてなされた発言でしょう か。
この発言を、上野氏のご専門であるジェンダー問題におきかえると、「日本は女性差別的な国。日本人はフェミニズムには耐えられないでしょう。日本に女性はいない方がいいです」となります。この類推から、上記の発言が、いかにマイノリティの存在を否定したものであるかを理解していただければ幸いです。
以上、質問いたします。
Ⅲ.一部のネット等で話題になっているようでもありますので、上野の回答を以下に公開いたします。なお発端が『中日新聞』記事でしたので、反論の掲載を中日新聞に求めましたが、断られたことをご報告申し上げます。
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特定非営利活動法人 移住者と連帯する全国ネットワーク・貧困対策プロジェクト
高谷幸さま
2月13日付け中日新聞あてに届いた公開質問状を転送していただきました。
以下1時間以上にわたる「談話」を簡略にまとめた記事では意を尽くせなかったところを、文書で説明したいと存じます。
移住連の方たちや、のりこえネット、国際人権NGO等の方たちが、すでに国内に在住している外国籍の方たちの人権擁護のための活動を担っておられることには、100%の敬意を払っております。
とはいえ、ご批判には基本的な誤読があると感じました。わたしの論の立て方と質問状とが対応しておりませんので、1対1対応ではなく、自論にそってお答えしたいと思います。
第一に、私の見解はこれまでではなく、「これから」先の将来について論じたものです。
第二に、ジェンダーやセクシュアリティと移民の問題が同じにできないのは、前者が選択できないのに対して、後者は政治的に選択可能だからです。(難民の問題は別です。)したがって、「公開質問状」にあった「この発言を、上野氏のご専門であるジェンダー問題におきかえると、「日本は女性差別的な国。日本人はフェミニズムには耐えられないでしょう。日本に女性はいない方がいいです」となります」は、まったく当たらない類推となります。
日本の人口推計によれば2060年の人口推計は8674万人、人口規模1億人を維持しようと思えば1.3千万人の社会増(移民の導入)が必要となります。つまり40年間にわたって毎年およそ30万人、中都市の人口規模にあたる外国人を移民として迎えることを意味します。現在の1億2千万規模を維持したいなら3千万、およそ半世紀後に人口の1-3割が外国人という社会を構想するかどうかが問われています。
出生率を政治的にコントロールすることはできないし、すべきではありませんが、移民は政治的に選択することができます。2000年代に入ってから経団連は「移民1000万人時代」(これまで「外国人」という用語を使い、「移民」と言ってきたことがなかったので、驚きでした)をうたい、政府は家事・介護労働市場への外国人の導入を検討しています。今のところいずれも及び腰ですが、この先、「この国のかたち」をどうするかについて、政策が提示されれば、わたしたち有権者も、それに対して賛否の判断をしなければなりません。
現実には日本にはすでに相当数の外国人労働者が入ってきており、外国人労働力依存の高い業種があること、その外国人労働者が技能実習生制度等のもとで不当な取り扱いを受けていること、外国人の犯罪率は人口比からいうと日本人よりは低いこと…等はデータから承知しております。
ですが、移民先進国で現在同時多発的に起きている「移民排斥」の動きにわたしは危機感を持っておりますし、日本も例外とは思えません。これから先、仮に「大量移民時代」を迎えるとしたら、移民が社会移動から切り離されてサバルタン化することや、それを通じて暴動やテロが発生すること(フランスのように…と書けばよかったんですね、事実ですから)、ネオナチのような排外主義や暴力的な攻撃が増大すること(ドイツのように)、排外主義的な政治的リーダーが影響力を持つようになること(イギリスのように)、また移民家事労働者の差別や虐待が起きること(シンガポールのように)などが、日本で起きないとは思えません。(なお移民国家であるアメリカとカナダは国の来歴が違うので、比較対象にするのは困難です。)それどころか移民先進国であるこれらの諸外国が直面している問題を、日本がそれ以上にうまくハンドリングできるとはとうてい思えません。それはすでに移民先進国の経験が教え、日本のこれまでの外国人への取り扱いの過去が教える悲観的な予測からです。
アジアには人口輸出圧を持つ国がいくつもあります。もし非熟練市場を含む大規模な労働開国をしたとしたら、そのことによって得られる利益は当然あるでしょうが、その結果近い将来、起きうることが容易に予見可能でしょう。家事労働者を導入したら、「育メン」論争などふきとんで、機会費用の高い男女は、より稼いで家事をアウトソーシングする選択肢を選ぶでしょう。ケア労働者を導入したら、ケアワーカーの労働条件を改善しようという議論はふきとんで、現状の低賃金に同意して参入してくる外国人労働者への依存が高まるでしょう。
これまでもとっくに外国人依存は進んでいた、というお考えの方もいるでしょう。EPA協定で年間500人の看護・介護労働者が入ってきましたが(もともと労働力不足の解消のためではなく、そのためなら焼け石に水の人数でしたが)、これが年間5千人、5万人の規模なら、どうなるでしょう。外国人家事労働者の導入にあたっても、労働者の人権を守るために「入れるならば、日本人と同じ労働条件で」という声は聞かれますが、だからといって、家事労働者の導入そのものに対する賛否の議論は避けられているように思えます。「移動の自由」と「労働の自由」を唱える「正義」のために、移民導入には表だって反対しないものの、現行の入管法を維持したまま、小出しに特例をつくっていくような姑息な政府のやりかたに怒りを覚えつつ、結果として沈黙によって追認を与えてしまっている事実を、わたしは苦い思いとともに自覚しています。その点では、移民導入是か非かの議論を避ける多くの人たちも、同じではないでしょうか。
わたしは日本の女性のかかえる問題が、外国人労働者への負担の転嫁を通じて解決されることをよしとしません。日本の女性が手を汚さずにすんでいるのは、たんに利用可能な選択肢がないからだけのことでしょう。これとても、とっくに国外労働力へのアウトソーシングを通じて負担の転嫁は起きているという反論もありうるでしょうが、問題は規模の違いです。「五十歩百歩」という言い方がありますが、「五十歩」と「百歩」は違う、というのが政治的選択というものです。
こう言うことは、もちろん、すでに国内に在住している外国人に出て行けということを意味しませんし、日本の難民受け入れが極端に少ないことは是正すべきだと思います。皆様方の熱意あるご活動にもかかわらず、すでに起きている国内の排外主義の動向やヘイトスピーチの現状を見れば、さらなる大量の移民の導入で、事態は悪化することこそあれ、改善することは望み薄というのがわたしの観測です。
ご指摘のとおり、「社会的不公正や抑圧」は「移民の導入」の結果であって、原因ではありません。また「世界的な排外主義の波と移民増加は並行して生じる」というご指摘もそのとおりです。ですが、このうちの一方だけを手に入れることが難しいとしたら、その両方を避けるという選択肢もあってよいのではないでしょうか。
反対にわたしの方からも、みなさま方に「移民一千万人時代」の推進に賛成されるかどうか、お聞きしたいものです。そしてそれが実現したときの効果を、どのように予測なさるかも。わたしたちが外国の人たちにどうぞ日本に安心して移住してください、あなた方の人権はお守りしますから、と言えるかどうかも。みなさま方の理想主義は貴重なものですが、理想と現実を取り違えることはできません。
わたしは移民の大量導入に消極的ですし、その効果についてかつてよりも悲観的になってきました。悲観的になる根拠が増えてきたからです。
どの社会も移民の導入について一定の条件を課しています。リベラルな移民政策を持つように見えるドイツやカナダも例外ではありません。まったく国境を開放した国民国家はいまのところ、ありません。それは再分配の範囲をどう定義するかという福祉国家の分配政治に関わるからです。そして福祉国家にはつねに潜在的に境界の管理が伴います。人口減少社会で「平等に貧しく」というシナリオは、再分配の強化を示したもので、国内の階層格差の拡大はその条件を掘り崩します。再分配路線に舵を切る、今が最後のチャンスかもしれません。
ちなみに後半の憲法改正について「心配していない」というのは、今の段階で仮に憲法改正国民投票が実施されたとしたら、高い蓋然性で「否決」されるだろうという観測からです。ちょうど橋下大阪市長の提案した「大阪都構想」の住民投票が否決されたように。いくらかは現状維持の保守的心性からもあるでしょうが、各種の世論調査がその根拠を示しており、その点からいえば、国民投票の時期が早ければ早いほど否決の可能性は高いと言えるかもしれません。もっとも政権は、解釈改憲でこれだけのことができるのだから、もはや改憲の必要性を感じていないかもしれませんが。
前半についてはわたしは悲観的、後半については楽観的な予測をしました。できれば悲観的な予測ははずれてほしいし、楽観的な予測には当たってほしいものですが、いずれにしても、アメリカの大統領選において、ほとんどの良識派ジャーナリズムの予測がはずれたのですから、わたしの予測も当たるかどうかはわかりません。
日本の将来をどうするのかを決めるのは、政治という名の人為的な選択です。人口問題と移民政策とは切っても切れない関係にあります。人口減少社会を受け入れるのか、それとも自然減を社会増(移民の大量導入)で補完するのか…この問題をみなさまの公論に処してほしい、というのがわたしの意図したところです。
Ⅳ.移民問題は、「選択の問題」か?--上野さんの回答を読んで 岡野八代
2017.02.18 Sat
上野さんの公開質問状に対する回答を読みました。新聞記事については、編集のこともあるし(こちらが、一生懸命話しても、記者はだいたい自分が書きたいことしか切り取らず、話者に記事をチェックさせない場合もあるので)、上野さんの真意もよく理解できなかったので、意見を表明したいとは思っていなかったのですが、上野さん自身の返答を受けて、自分との違いをはっきりと認識しました。
わたしは、シティズンシップ(国籍・市民権・市民であること・市民としての資格・市民らしいふるまい、などの意味)の研究もしてきましたーー上野さんが、歴史的背景が異なるとして言及しなかった北米ですがーー。研究上、やはり、富裕国に向かう労働移民の問題は、ずっと大きな問いでした。そのなかで、上野さんが主張されている、あたかも移民問題が、国策=主権国家が受け入れる・受け入れないを一方的に判断できる「裁量圏内」にあるという考え方は、すでに80年代以降、ずっと思想的には批判されてきた「主権」論だと理解しています。そもそも、この上野さんの「移民」の捉え方は、あまりに国家中心的すぎる。移民を、「受け入れ国家」が選択できる問題としてのみ、考えているからです
移動してくる人たちにとって、移民問題は「選択」の問題と言い切ってしまうことは、差別を受ける、不利益をこうむることが分かっていながらーーわたしの知る限り、移民してくる人たちは、二世・三世のために、そのことを覚悟する人たちも少なくないーー他国に入国したのだから、その差別を甘んじて受けろ、という議論に短絡します。また、日本だけがーー上野さんの予想が正しく、日本国民も日本の在留外国人も、そしてニューカマーたちも、多くの困難に見舞われようともーー、国際的な財の配分の不平等ゆえに押し出されてくる人たちを、排除できるいかなる道徳的な正当性もない。「平等に貧しくなろう」という掛け声は、再配分機能をたたきなおす、という意味において賛同できるとしても、そもそも、やはり「移民」について、上野さんの目線はあまりに、国家中心主義的すぎる。公開質問状への回答は、上野さんの国家中心主義がとても露わで、衝撃を受けました。移動してくる人たち、そしてその周りで生きる人たちへの配慮がいっさいないから。そもそも、「国内の」財の再配分を(ロールズ流に)言う前に、国籍の配分がいかんともしがたく、恣意的に決定されてしまっている現在の国際社会のなかで、国籍における配分の不平等は、ロールズ以降、ずっと問われてきました(シティズンシップ論のなかでは)。そして、シティズンシップ研究なんて知らない人たちだって、肌身で感じてきたはずです、そんなことは(わたしは、90年代前半に、韓国からの留学生の友人とアメリカ旅行するさいに、彼女にだけ当時はビザが必要で、しかも彼女は、80年代韓国で反政府活動をしていて、良心犯として逮捕されているので、もしかしたらビザがでないかもしれないと、本当に心配したさいに、強烈に、国籍の恣意性を思い知った)、日常知レヴェルで身に沁みている人はたくさん日本にもいるはず=でも、上野さんは違うのだろうか?、とこれもショックです。
国籍における配分を思想的に問うたトマス・ポッゲはすでに翻訳もされていて、国境の外にいる人たちへに対する富裕国の責任という問題は議論されて久しい(でも、かれのデビュー作で、そのことを中心的に問うた、Realizing
Rawls はまだ、残念ながら日本では出版されていません)。
なぜ遠くの貧しい人への義務があるのか―世界的貧困と人権
著者:トマス ポッゲ
生活書院( 2010-04 )
そして最も鋭い問いを発したのは、Ayelet Shashar, The Birthright Lottery: Citizenship and
Global Inequality (Cambridge: Harvard University Press, 2009)です。 世界中の自由民主主義国家において、生まれの特権は否定され、少なくとも業績主義の原理が貫かれているなかで、なぜ、国籍だけが出生地主義であろうと、血統主義であろうと、「生まれ」によって決定されるのか?を、遺産相続法とのアナロジーで考えていく、という本当にすばらしい本。単純に、出生地主義のほうがまだ差別が少ないと思い込んでいた(いまでも、ある程度、そのように考えている)わたしに、大変な衝撃を与えてくれた本です。まずほとんどの人は、相続税の存在自体に反対はしないだろう。親が大金持ちで、どうしてその子孫もその恩恵をうけるのか?実際は、すでに再配分機能が低下するなかで、そのような事態には陥っていますがという疑問は、わたしたちの日常知レヴェルで、それなりの正当性をもっています(相続税の根拠について、この本で始めて勉強しました。また、青山学院大学学長の、三木義一先生から税法に関する論文を紹介してもいただきました)。それと同様に、なぜ、親や生まれた土地によって国籍が偶然、まるでくじ引きのように継承されるのか、それはあまりに、道徳的にみて恣意的だ、と主張する議論です。
論文のために一度は書いてみたものの、結局削除して発表しなかったシャシャールについての文章が手元に残っていたので、最後に貼り付けておきます。
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
以上の憲法第11条が宣言するように、〈わたしたち〉国民は、何人からも侵されない基本的人権を十全に尊重される。だが、国家によって保障されるのが「人権」であるならば、それは個人が社会において生きるうえで、尊重される必要がある権利であるはずだ。〈わたしたち〉内部では、等しく人権が保障される。だが現在、自由権や社会権のよりよい保障を求めて、多くの人が国境を越えて移動する。また、外国に長期滞在するなかで、より住みやすい環境を求めて、政治的な発言権、そして決定権が必要になることもあろう。さらには、現在では国際法上の人権として認められてはいないものの
、国籍国を離れ、よりよいと考える国家への入国を望む人たちがいる。
現在、日本もその一員である国民国家システムにおいて、国家だけが人権保障の有効な機関である。たとえば、アイレット・シャシャールは、国籍法において血統主義をとろうが出生地主義をとろうが、シティズンシップという諸権利をもつ権利が世界的に不平等に配分されていることにかわりがないとして、不平等な国際システムを維持している、入国に厳しい条件を課す富裕国家には、この不平等を是正する義務があると説く[Shachar
2009]。彼女によれば、諸権利をもつ権利という人間にとって最も重要な権利は、〈生まれ〉というあたかもくじ引きのような運に左右されてはならないからだ。
なお本文は、2月17日に個人のFBに掲載した記事を、加筆修正したものです。
Ⅴ.共生の責任は誰にあるのか—上野千鶴子さんの「回答」に寄せて 清水晶子
2017.02.19 Sun
上野千鶴子さんの移住連質問状への回答を拝読しました。新聞記事の訂正をなさることを期待していたのですが、上野さんはやはり「政策として大量移民を推進すべきか」という問いに答えを出すことを優先なさるあまり、「移民や外国籍住人との共生の責任は誰にあるのか」を見失っていらっしゃるように見えます。
○移民の理解については移住連から、シティズンシップという観点からは岡野八代さんから、それぞれ専門家の見解が表明されています。フェミニズム/クィア理論の研究者としてわたしが真っ先に感じたのは、上野さんの今回の御主張が「フェミニストの主張」でもあるのなら、その「フェミニズム」はわたしの理解してきた「フェミニズム」とは違う、ということでした。
上野さんの御主張が「社会体制の変革なしに労働力確保のみを目指して大量移民政策をとるのは無責任である」ということなら分かりますし、わたしも同意します。上野さんのコメントとして掲載された最初の記事を批判した方達の多くも、おそらくそれは同じだろうと思います。けれども、それと「日本人は多文化共生には耐えられないから移民を受け入れるべきではない」との間には、大きな隔たりがあります。
前者はまさに後者のような現状の変革を要求するものであり、逆に後者は前者が変革しようとしている現状を追認するものです。「現状を放置したままの大量移民政策は無責任」であるとすれば、なされるべきは現状の改善です。そこから一足飛びに「だから移民はやめよう」といい、いわんやそれを「日本人は多文化共生に耐えられない」というような「不変の国民性」に帰すのは、現状放置に他ならないのではありませんか。
理想主義も結構だが現実を見るべきというご意見についても、「排外主義的な政治的リーダーが影響力を持つようになること」「移民家事労働者の差別や虐待が起きること」が「日本で起きかねない」と仰るのを拝読すると、現実を見ていないのはどちらだろうかと疑わざるを得ません。日本では既に排外主義的な政治的リーダーが影響力を持ち、移民労働者の搾取は各方面で問題になっています。その現状を踏まえればまず主張すべきは現状改善であり
、社会不安の原因を移民に帰着させる「大量移民による社会不安」というような発言は現状を悪化させるだけだというのが、批判側の論点ではなかったでしょうか。
なかでも、フェミニスト理論の研究者として私が上野さんととりわけ大きく見解が異なると感じるのは、ジェンダーやセクシュアリティと移民の問題は同じにできない、なぜなら前者は選択できないが後者は政治的に選択可能だからだ、との御主張のくだりです。
これは、位相の異なる話を混在したまま並立させているもののように思えます。ジェンダーやセクシュアリティは「選択不可能」で移民は「選択可能」という時、誰が、何を、選択していることが、想定されているのでしょうか。
例えば日本には、選択して日本に来たわけではない、あるいは日本で生まれ育った外国籍住人が、既に多数存在しています。その点を考慮せずに「移民と選択」の話をすることはそれ自体きわめて無理があると思うのですが、ここでは「現在のことではなく、将来の話をしている」という上野さんに最大限寄り添って、今後日本に移住するかもしれない移民一世に絞って考えたいと思います。
移民一世が「生まれた国を離れて生活する」のは、個人的な決断であると同時に、グローバルな経済格差やそれぞれの政治的社会的状況に促されているという意味で、たしかに政治的な—政治的状況に強く影響され、そして政治的な効果をもつ—決断です。けれどもそれを言うのであれば、「女性の労働条件がまだ圧倒的に悪い社会で女性が婚姻に経済的安定を求めず単身で生きる」のも、「性別が二つしか許容されていない社会で付与されたジェンダーを受け入れる/拒否する」のも、「異性愛主義が根強い社会でカムアウトして/クローゼットで生きる」のも、同じ意味で個人的かつ政治的な選択です。すでに政治的に強く規定された諸条件の下でなされたそれらの決断に対して「それを選択しないこともできる」と言いつつ実質的にその選択を制限する権利が、いったい誰にあるのでしょうか。もしそう言うとすれば、それは「その選択の結果生まれた状況に不満があるならそういう選択をしなければよかったのだ」とする自己責任論と、極めて近くなってしまうのではないでしょうか。
そもそもジェンダーやセクシュアリティについて語るのであれば、非規範的な性愛やジェンダー表現がかつては(あるいは残念ながら今でも一部において)「選択可能であり従ってそれを選択した場合には責任を負うべきもの」として考えられていたことを忘れるわけにはいかないでしょう。
同性間性愛や異性装を犯罪とするそれらの言説に反対し「これは自由な選択の結果ではないから、犯罪とみなすべきではない」というために病理化の言説が生まれたこと、それが強制収容や同性愛治療という悲劇に繋がったこと、その歴史を踏まえ、選択であるか否かを問わず性自認や性的指向を承認される「権利」が追求されてきたことを、忘れるわけにはいかないでしょう。
性自認や性的指向はたしかに多くの場合、個々人が意図的に自由に選択できるものではありません。けれども、ジェンダーやセクシュアリティにかかわる社会的不公正が是正されるべきなのは、それらが「選択できないものであるから」ではありません。同性にも異性にも惹かれるある人が、同性を性愛と生活のパートナーとすることを「選択」したとしても、それを理由に不公正な扱いを受けるべきではない。「埋没」して生きることができるある人が、自らをトランスジェンダーであると公言することを「選択」したとしても、それを理由に不公正な扱いを受けるべきではないのです。
同様に、そもそも移住の決断はしばしば個人の自由な「選択」ではなく、経済的・政治的な要因にも強く規定されています。そして、そこに個人の選択という要素があったとしても、それを理由に、移住の権利、移民としてある土地に生活する権利を制限すべきだという主張に繋げてはならないはずです。
あるいは、上野さんは移民にかかわる「政策」は政治的選択だと仰りたかったのかもしれません。けれどもそれを言うのであれば、ジェンダーやセクシュアリティにかかわる政策も、政治的選択です。
「排外主義の悪化を避けるために移民増加を避ける(繰り返しますが、これは「外国籍住民の権利保障を放棄したまま労働力としてのみ移民を大量導入する政策への反対」からは大きく隔たっています)」ことを政策として主張し採用するのは、誰なのでしょうか。「日本人」がこれを移民に関する現実主義的政策として認めても良いのであれば、「社会の女性嫌悪の悪化を避けるために女性の〈社会進出〉を制限する政策」を男性が主張し採用することも、許されてしまうのではないでしょうか。
あるいはそれは、日本のホモフォビアの現状を前にして「異性愛主義の現状を改善するべき」ではなく「同性愛者が可視化されることはホモフォビックなヘイトクライムを招いて社会不安を引き起こすから、これ以上カミングアウトをさせない政策をとるべきだ」と主張することと、同じではないですか。
フェミニストとして、それは、加担してはならないロジックではありませんか。
ある社会の対応の不備によって生じる「かもしれない」問題—言い換えれば、ある社会を構成するマジョリティの問題—の解決を、マイノリティの権利の制限によってはかろうとするのは、フェミニズムの根本と矛盾する態度ではないのでしょうか。
今回の「回答」で上野さんは「移民が社会移動から切り離されてサバルタン化することや、それを通じて暴動やテロが発生すること」と書いていらっしゃいます。小さいところではあるのですが、わたしはこの「サバルタン」の使用法に強い違和感を抱きました。
サバルタンとは、その政治/社会/言語的主体性が社会において承認されない存在であるはずです。そうであれば、移民がもしサバルタン的状況におかれるとしたら、その時に「サバルタン化する」主語/主体は受け入れ社会の側であり、移民の側ではありません。「移民が…サバルタン化する」とは言えないはずなのです。
これは「サバルタン化」を食い止める責任が誰にあるのか、ということでもあります。
スピヴァクが「サバルタンは語れない」を「サバルタンは聞き取られない」と言い換えたのは、まさにその点を明確にするためでした。わたしたちはたとえ聞き取ることができなくてもなおその声を聞き取ろうと努めなくてはならない。それがスピヴァクの、サバルタンではないフェミニストとしての、フェミニズムでした。
それを考えれば、この文脈ではマジョリティの一員であるフェミニストが「移民のサバルタン化」を自然現象のように、ましてや「移民」を主語/主体として語ることは、不正確であるばかりか、不誠実ですらあります。
日本社会が多文化社会にあるいは外国籍住民の増加に対応できていないのであれば、それは日本社会に生きている、とりわけ日本社会で日本国籍を保持して生きている人々の問題です。
「わたしたちは移民や外国籍住人の権利を守れないし、その結果社会不安が起きたりしたら困るから、移民や外国籍住人が増えないように彼らの移住の権利を制限しましょう」と言うのは、「わたしたち」の問題を「彼ら」に転嫁することに他なりません。
フェミニズムは、「女性たち」が直面する問題を「女性の問題」ではなく「男性社会によって(あるいは「家父長制」によって)作り出された問題」であると看破し、今あるものとは異なる社会の可能性を想像して社会の変革を求めてきました。「男性社会におけるマイノリティとしての女性」としてではなく、たとえば「日本社会におけるマジョリティとしての日本国籍保持者」としてであっても、あるいはその時にこそなおさら、フェミニストはその「見方」とその「想像力」を捨てるべきではないとわたしは思います。フェミニズムは「マジョリティの女」だけのものではなく、そして、フェミニズムの希望はまさにそこにあるはずなのですから。
Ⅵ.脱成長派は優し気な仮面を被ったトランピアンである――上野千鶴子氏の「移民論」と日本特殊性論の左派的転用 北田暁大 / 社会学2017.02.21 Tue
はじめに
以下では上野千鶴子氏の「移民悲観論」について相当に厳しい調子で批判を展開する。読者のなかには、「それほど強く批判する必要はない」「上野氏の業績を否定するのか」といった印象を持つ方が一定数いらっしゃると思う。たしかに、我ながらいささか感情的に書き殴っているという自覚は持っている。
私自身は、上野氏に学問的にも人間的にも大きな恩義を感じているし、日本のフェミニズムを切り開いた上野氏の業績に畏敬の念を抱いている。しかしここ数年、しばしば見かける上野氏の、おそらくは無自覚の「新自由主義」的な議論に危うさを感じ、学恩を受けた一人として、その議論の問題について対談やSNSなどさまざまな場で、同時代の社会学者として疑問を投げかけてきた。それは、上野氏を思想的な文化遺産として捉えること、過去の偉人として批判を回避することほど、上野氏に対して失礼なことはないという信念にもとづいてのことであった。
その多くは私の非力ゆえにかわされてしまい、上野節の健在ぶりを証左することになっていたのだが、今回の「移民論」は、完全に一線を越えたものであり、影響力のある社会学者・フェミニストの発言として、とうてい看過しがたいものであった。上野氏に尊敬の念を持つ社会学者の一人として、読後の深い絶望感のなかで誰を宛て名とすることもなく「批判」を書きださずにはいられなかった。もっと抽象化し、無難に書くことも不可能ではなかっただろう。しかし、私は心より尊敬してやまない上野氏に、最大限の敬意をもって「お手紙」を書かせて頂くことした。
もとより応答は期待していない。ただ、日本の左派の一部に根強い人気のある「脱成長」「清貧の思想」がいかに残酷であり、またトランプ的一国主義・排外主義と裏表のナショナリズムを随伴してしまっているか、そのことを私の知るかつての「あの」上野千鶴子氏、そして上野氏の読者に向けて問題提起をしておきたいと思う。
「内なるトランプ」を精算しえないかぎり、そして優し気な言葉に包まれた敗北主義を精算しない限り、左派・リベラルの論理は――ノブレス・オブリージュすら欠いた――裕福なインテリの玩具にしかなりえない。日本と言う場に、本当にジェンダー公正で、多文化主義を実装した社会民主主義を創り出そうと言うのであれば、上野氏の所論は絶対に越えねばならない壁である。この壁の前でたじろいで目や耳を塞いでいる余裕はわたしたちの社会にはない。この「手紙」をもって私が問いかけたいことは、そういうことだ。
私は上野氏から多くの知的遺産を受け取った一人として、同じような立場にある遺産相続者たちに呼びかけたい。安易に社会に絶望してはならない。その偉大な知的遺産を次世代に遺すためにも、上野氏の移民論をみなかったことにしてはならない、と。
「多文化主義は無理」?
中日新聞2月11日付「この国のかたち 3人の論者に聞く」という記事のなかで、社会学者でありフェミニストである上野千鶴子氏が驚くべき発言をし、上野氏に共感的であった層のあいだにも衝撃が走っている。それは、次のような多文化社会に対するペシミスティックな見解を述べた部分である。これは意見といえば意見なのだが、さまざまな水準での事実誤認と社会科学的に問題のある信念とが入り乱れており、私は現代日本の「脱成長左派」の純粋型をここにみた気がしている。
日本はこの先どうするのか。移民を入れて活力ある社会をつくる一方、社会的不公正と抑圧と治安悪化に苦しむ国にするのか、難民を含めて外国人に門戸を閉ざし、このままゆっくり衰退していくのか。どちらかを選ぶ分岐点に立たされています。
移民政策について言うと、私は客観的に無理、主観的にはやめた方がいいと思っています。
客観的には、日本は労働開国にかじを切ろうとしたさなかに世界的な排外主義の波にぶつかってしまった。大量の移民の受け入れなど不可能です。
主観的な観測としては、移民は日本にとってツケが大き過ぎる。トランプ米大統領は「アメリカ・ファースト」と言いましたが、日本は「ニッポン・オンリー」の国。単一民族神話が信じられてきた。日本人は多文化共生に耐えられないでしょう。
上野氏の経済に対する捉え方、少子化についての捉え方、そして歴史認識については、以前より深い疑念を持っており、直接・間接に疑問を投げかけてきた。本件もある意味で、そうした上野氏の思想の延長上にあるのだなと、半分は理解――共感ではなく――できてしまえる。だが、それにしても完全に一線を越えたように思う。
これは失言の類で収められるようなものではない。「インタビューだから真意が伝わらなかった。記者が誤解している」と言うのであれば、即座に中日新聞にその旨を伝えるべきであろう。そうでないとすれば、言葉通りに受け止めるしかない。後日、自身のブログにて「弁明」を提示されたが、それを読んだうえでなお、以下の議論に修正を加える必要を何ら感じなかった。
この発言において最大の問題は「移民を入れて活力ある社会をつくる一方、社会的不公正と抑圧と治安悪化に苦しむ国にするのか」という、選択肢の提示部分が前提としてしまっている認識である。この部分は二つの読み方を許容する。
ひとつは、「移民が入ると治安が悪くなる」という前提を上野氏が採っている可能性。SNSなどではこうした解釈も見られたが、それはさすがに上野氏に酷というもので、「社会的不公正と抑圧」という言葉が入り込んでいることから、「移民が入ると、移民自身が不公正な状態に置かれる」「移民が入ると、移民に対する抑圧が起こり、反対派などによる暴力などの治安問題が起こりかねない」というあたりが真意であると考えるのが妥当であろう。
しかしそんな善意の解釈を施してもなにも救われない。この発言が有意味であるためには、「移民が不公正な状態に置かれて、犯罪に手を染める」という被抑圧者犯罪説か、「反対派による抑圧という暴力が多発する」という抑圧者犯罪説のいずれかが妥当でなくてはならないからだ。
ここで上野氏が言っているのは法的に認められた形で入国した移民のことである。そうした移民が流入することにより犯罪率が上がる、あるいは反対派による犯罪が増える、と言うのは、移民消極派、トランピアンと同じ社会認識であるが、実際にはより丁寧な議論が必要だ。
というのも、移民や外国人労働者の移住の増加と犯罪率との関係について考える際には、まず経済的移民というのが、実際的には近隣地域への移住に限定されているという地域限定性が強い(アジアの移民でもっとも多いのは中東地域におけるサウジアラビアやアラブ首長国連邦のような富める国への移動である)ということ、また必ずしも「途上国→先進国」移動が多いわけではなく「途上国→途上国」移動が多いという移動パスの多彩さなどもあることを踏まえ、ケース間の比較が難しく、容易に結論を得られるような論点ではない(林玲子「国際人口移動の現代的展望」人口問題研究70-3,2014年)ことを踏まえなくてはならないからだ。
また、後者の「反対派による犯罪」にいたっては迎える側が対応すべきことであり、その受け入れ態勢の問題点を改善する議論をするのであればともかく、安直に「犯罪率の増加」という論点に絡めるべきことではない。日本には在日本朝鮮・韓国人へのヘイトスピーチを行うひとたちが驚くべき数存在するが、例えばそうしたひとたちが増えるからといって、在日朝鮮韓国人に日本から出ていったほうがいい、などとアドバイスするのは、「のりこえネット」の代表である上野氏であればまず考えないだろう。変えるべきは受入れの環境であり、「批判派が暴れる可能性があるから」という理由づけは、本末転倒も甚だしい。この立場を上野氏が採るものではないと考える。
というわけで前者の「合法移民の犯罪率」に戻ろう。日本の人口に占める外国人比率は90年代以降漸増傾向にあるが、外国人の刑法犯検挙人数比は2%前後を維持しており、平成27年度の『来日外国人犯罪の検挙状況』にも、「総検挙件数・人員は、前年比でいずれも減少。約10年前のピーク時と比べて大幅に減少したが、最近5年間は横ばい状態」とある。ここにいう来日外国人とは定着居住者(永住権を持つ者等)を除いた数字であることにも注意を促したい。
「警察庁の「犯罪統計」(各年版)によれば、外国人の「刑法犯検挙人員/外国人人口」比率は、日本全体の比率よりもわずかであるが恒常的に高い。しかし、このことは必ずしも「外国人だから」罪を犯しやすいことを意味するわけではない。例えば、外国人の内、不法滞在者の同比率は正規滞在者のそれを上回り続けているが、これが示唆しているのは、正常な所得稼得手段を持たないことが、犯罪の誘因を強めている」(児玉卓「移民レポート
1日本の移民問題を考える」大和総研2014年11月17日リサーチ)というのが妥当な見方であろう。
常識的に考えて、合法的な形で日本に滞在している外国人の犯罪率の高さを主張するには、データの扱い、解釈を含めて、社会科学者として相当な勇気が必要であるはずだ。また、現状の技能実習制度や入国管理の矛盾を見れば、まずは移民手続きの「適正化」こそが主張されるべきで、一足飛びに「治安悪化が懸念されるから大量移民には否定的」と主張するのは本末転倒だ。
よく知られるように、「外国生まれの人口比」に関しては、日本はOECD先進国のなかでは実質的に最低の数値、1%ほどにとどまる。独米英仏のように10%を超える状況にはなっておらず、治安の悪化を心配するような段階にすら到達していない。被抑圧者犯罪説を心配するより先に、すべきことがあるだろう。
日本では単一民族神話が信憑されているから、移民を受け入れる寛容性を期待できない、というのが上野氏の考えなのだろうが、それが被抑圧者犯罪説を伴うのか、抑圧者犯罪説を伴うのかが不分明である。前者であれば、統計上の数字の見方、解釈に大きな問題があるし、後者であれば、多文化主義への努力すらしていないこの国に対してずいぶんと「優しい」考え方といえる。
上野氏は「客観的に無理」「主観的にはツケがおおすぎる」と断言する。主観も客観も、どちらも上野氏の状況認識を反映した心情の吐露にすぎない。だいたいこの主観と客観の区別の意味が分からない。いずれも上野氏の正当化されていない信念を語ったものにすぎない。「私は残念に思うけれども、現状をみていると、多文化主義に日本は耐えられそうにないから無理」と言うのであれば、「私は残念に思うけれども、現状をみていると、日本の家父長制は強固だから変えるのは無理」という理屈も通ってしまう。リアリズムを装ったただの生活保守主義である。上野氏はそれで満足なのだろうか。
「経済」という変数
こうした上野氏の混乱は、実は、この記事全体に流れている上野氏の「脱成長論」と深く関係していると私は考えている。上野氏はこう言う。「日本は人口減少と衰退を引き受けるべきです。平和に衰退していく社会のモデルになればいい。一億人維持とか、国内総生産(GDP)六百兆円とかの妄想は捨てて、現実に向き合うべきです」。
これは上野氏のみならず内田樹氏や小熊英二氏など、有力な左派論客に共有されている脱成長・成熟社会論である。脱成長とは言うけれど、要するに「清貧の思想」である。中野孝次『清貧の思想』が、清貧など想定もしていないバブル期に、貧しさなどと無縁な人びとに読まれたように、脱成長論もまた、豊かなインテリの玩具となっている。
そもそも犯罪率というのは、ある程度の経済規模を持つ地域においては――エビデンスを重視すると言う上野氏であれば知らないはずがないと思うが――経済指標と関連がみられることは、社会科学の知見が差し出してきた通りである。
例えば大竹文雄らの研究においては、「犯罪の発生率が、犯罪の機会費用と密接な関係をもつ労働市場の状況や所得状況、警察などの犯罪抑止力と整合的な関係にある」と指摘されている(大竹文雄・小原美紀「失業率と犯罪発生率の関係:時系列および都道府県別パネル分析」『犯罪社会学研究』35)。どういうことかと言うと、犯罪の発生率というのは、失業率が高かったり、格差が激しかったりする状況において増加する傾向にあるということ、要するに「経済の悪さ」は「治安の悪さ」と関連を持つということだ。
これは日本でも米国でも観察されることである。ものすごく簡単にいえば「貧すれば鈍する」ということである。このことは、時系列的(景気の変動、失業率の変化)にも、共時的にも(経済的に沈滞している地域/豊かな地域)同様の傾向が確かめられている。すなわち、生活苦などの状況に置かれた人たちが窃盗などの犯罪にかかわってしまう、というきわめてシンプルな話である。
経済環境がひとを犯罪へと駆り立てる――。このことは、来日本外国人による犯罪率の僅かながらの高さを説明する。反移民国家・日本では、「技能実習」の名のもとに事実上単純労働者を外国人に委ねる――しかし移民とならないように帰国を義務付ける――「移民政策」が採られている。その多くは、「労働者」ではない「実習生」として、労働者の権利が相当に限定された単純労働に従事しており、収入も処遇もよい状況にはない。他の経路で日本に滞在している途上国の外国人、さらには非合法に入国している外国人に至っては、さらに状況は悪い。総じて構造的に劣悪な経済状況、就労上に置かれているひとが多く、そのことが犯罪率が高い傾向の要因となっていると考えられる。
つまり、「外国人の犯罪」と呼ばれる事柄のほとんどは日本国籍者にも適用される「経済的要因」によって説明されうるわけだ(社会学者に対しては、「経済的な変数を統制せよ」といったほうがわかりやすいかもしれない)。とすれば、犯罪率にかんして外国人と日本国籍者を分別して考えることにそれほどの意味はない。それは「外国人問題」でも「移民問題」でもなく、「経済問題」なのだ。
上野氏が一貫してみようとしないのが、この「経済と社会秩序」という古典的問題である。経済的な安定性がないところでも秩序が保たれると本気で考えているのだろうか。それとも「日本人は非常時でも整列する」などというあの「日本人素晴らしい」論に与するのであろうか。敗戦後の日本、『教育勅語』で教育を受けた人びとがどれほどの凶悪犯罪に手を染めていたか、どれだけ犯罪率が高かったか、戦争特需以降の景気回復で治安がどれほど劇的に改善されていったか、社会学者であれば誰しも知るところである。日本人は特殊な道徳意識を持つ人びとではない。経済状況が悪化すれば、外国人滞在者、移民の存在に関係なく、犯罪率は高まる。上野氏は日本特殊性論を打ち出したいのであろうか。
さらにいえば、90年代以降、移民増加によって経済成長を維持した国では、犯罪率の低下すらみられる。典型的なのはスペインであるが、ようするに、労働力不足→移民増加→経済成長→犯罪率低下という循環が生み出されているわけで、ここには魔法も何もない。ごくごく単純な社会の傾向性が存在するだけだ(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1170a.html)。「外国人滞在者が増加すると犯罪率が高まる」と言うのは端的に、日本という国が外国人の労働に関してきわめて厳しいハードルを作っていて、そのハードルを越えられない入国者が法により守られることのない就労環境に置かれるからであり、さらに合法的な入国でも「実習生」制度のような形で労働者としての権利を制限しているからにほかならない。
一方「外国人滞在者・労働者が増えると犯罪率が低下する」というスペインのような傾向は、たまたまスペインにやってくる移民が道徳的に正しい人たちだからというのではなく、経済環境がよくなるとスペイン人も移民もともに犯罪率が低下する、というだけのことである。
上野氏は識者として公のメディアで発言しているのだから、この点については私以上に専門知識を持っているはずだ。にもかかわらず「移民」は無理であると言う。なぜか。
ひとつには、経済という人間の社会的営みに対する上野氏の認識の無頓着さと、それを支えるナショナリズムが考えられる。つまり「経済などというのは、成長がなくても、そんなにひどくはならないだろう」という、日本経済の底力に強い信頼を置いている可能性がある。たしかに二次大戦後、移民をほぼ政策的に受け入れることなく経済成長を達成したのは日本ぐらいである。しかしそれが、人口ボーナスや特需などいかに「偶然的」な要因によって達成されたかは上野氏もご存知のはずだ。日本人の勤勉なエートスが経済成長を達成した、などと言うのは絵空事である。
いまひとつには、「経済が悪くなっても日本人は清く正しく生きるだろう」という漠然とした日本人の秩序志向への信頼が考えられる。現に日本はデフレの時期に「排外主義」の顕在化を許してしまった。経済だけが原因とはいわないが、まだ一億人の人口規模を持ち、団塊ジュニアが生産年齢にあるこの時期のデフレですら「我慢できない」人びとが、人口が半減し老人比が重くのしかかる状況での生活・経済環境に充足することができるとでも考えているのだろうか。
上野氏は「平等に、緩やかに貧しくなればいい」と言う。なぜ日本だけがそんなことが可能だと考えるのか。上野氏をはじめとする脱成長派に聞きたいのはそのことである。上野氏は「社会民主主義」という言葉を使っているが、どこに「成長」を目指さない社会主義思想が存在していたというのか。「権利・自由の欺瞞には踊らされずにみなの豊かさを求めていく」というのが社会主義の基本理念であろう。いつから社会民主主義は「清貧の思想」になってしまったのか。
総じてこれらの問いへの答えが得られない現状では、ひとつ考えられる有力な仮説は、「脱成長派は『日本経済』や『日本人のエートス』の力強さ、秀逸さを固く信じている」ということだ。これは伝統的な日本特殊性論にほかならない。単一民族神話を解体したいのなら、そんな日本特殊性論もちゃんと一緒に清算すべきである。「脱アイデンティティ」などと言っている暇があったら、ご自身の強固なナショナル・アイデンティティを「脱構築」すべきである。あるいは自分はそうしたナショナリズムから自由であると考えているのかもしれないが、犯罪率と移民問題を結びつけた時点で何にご自分が踏み込んでしまったのかを自問していただきたい。【次ページにつづく】
Ⅶ.排外主義に陥らない現実主義の方へ――上野千鶴子さんの回答について 稲葉奈々子・髙谷幸・樋口直人
2017.02.22 Wed
『中日新聞・東京新聞』2/11付け「考える広場 この国のかたち 3人の論者に聞く」における上野千鶴子さんの発言に対して、特定非営利活動法人移住者と連帯する全国ネットワーク・貧困対策プロジェクトから公開質問状を出しました。その後、上野さんから回答をいただきました。まずは、誠実に回答してくださった上野さんに感謝申し上げます。
しかし、上野さんが自らまとめられた回答は、新聞記事よりさらに深く懸念を持たざるを得ないような内容でした。これに対して、質問状を執筆した研究者メンバーで意見をまとめました。すでに岡野八代さんと清水晶子さんから重要な論点が提示されているので、移民に限定して議論します。なお、上野さんから責任ある個人としてのやりとりが望ましいという示唆をいただきましたので、今回は執筆者の連名で公表いたします。
Ⅰ 上野さんの回答へのリプライ
まず、上野さんは「みなさま方の理想主義は貴重なものですが、理想と現実を取り違えることはできません」と指摘しています。こちらが理想主義に傾倒するあまり、現実を冷徹に見ていない議論をしているという趣旨だと理解しました。しかし、移民をめぐる議論に関わってきた立場からすると、以下の理由で上野さんが言われる「現実」の方が非現実的な想像の産物のようにみえてしまいます。
1.「移民の大量導入」を決められるという前提
移民政策あるいは移民のフローというのは、上野さんが言われるような「受け入れます」「受け入れません」などという掛け声でできるものではありません。移民政策研究の主要な論点の1つは、反移民の態度をとる人が多い中でも移民の流入が止まらないのはなぜか、というものでした。相互に矛盾する要求を持った要素が複雑に絡まり、方針を明確に定めるのが難しい、仮に方針が定まったとしてもそれを裏切る意図せざる結果が続出する、それが移民をめぐる現実です(Freeman
1992, Hollifield 1992)。
具体的には、経済的自由主義(労働力需要)、国家主権(ナショナリズム)、政治的自由主義(権利尊重)、セキュリティ(治安=安全保障)、移民ネットワーク(移民規制の無効化)といった要因が複合的に作用して、移民政策や移民フローを作り出します(Guiraudon
and Joppke eds. 2001, Huysmans 2006, Massey et al. 2002, Soysal 1994)。そのため、「これから移民国として転換します」などと宣言して移民受け入れに舵を切るなどというのは、現実離れした想定です。実際には、なし崩し的に移民が増加した結果、「宣言なき移民国」になったり、「新たな移民国家」になったりするものです(Hollifield
et al. eds. 2014)。
上野さんは、「みなさま方に『移民一千万人時代』の推進に賛成されるかどうか、お聞きしたいものです」と逆質問されておられます。しかし、経団連や自民党の議員連盟が出す政治的アドバルーンを額面通りにとり、それに対して二分法で賛否を問うこと自体が現実離れした議論といわざるを得ません。つまり、逆質問にお答えするならば、「移民を(大量に)受け入れるか/拒否するか」という二分法自体が意味をもたない問題設定であるというのが私たちの回答となります。
2.「これまで」と「これから」について
上野さんは、「基本的な誤読」として、「私の見解はこれまでではなく、『これから』先の将来について論じたものです」としています。質問状に現状認識や現状評価に関することが含まれていることに対する応答ですが、「これから」について「これまで」と切り離して論じるのは非現実的です。
福祉国家論でいわれてきた経路依存性の議論は、移民政策研究にも適用されています(Favell 1998, Faist et al. 2004)。ある時点で作られた政策が、その後の政策を拘束して一種の経路を作り出す、その結果として最適な政策が取れなくなっている状況の分析に使われる概念です。日本の場合、冷戦と植民地主義から引き継いだ差別構造・意識を背景にしてつくられた、入管法と外登法のセットによる外国人の「管理」、申請帰化による国籍取得などが、移民政策の根幹をなしてきました(Morris-Suzuki
2010)。外登法はなくなりましたが、基本的に政策の基調は変わっていません。その結果、「単純労働者は受け入れない」といいつつ、「親族訪問」や「技術移転」という名目で、多くの非熟練労働者が入国し、働く状況が続いています。
現時点での移民をめぐる状況は、過去の政策に規定されて生じており、それは将来をも規定します。それゆえ、質問状では将来について語る際の基本的な判断材料として、現状認識をめぐる内容を多く含めました。これは、上野さんが言及されている諸外国よりも先に参照されるべきだからです。上野さんが「基本的な誤読」とおっしゃるのでしたら、日本の移民政策が経路依存的でなく、フリーハンドで作り直されると判断される根拠を明示すべきと考えます。そうでない限り、現状と将来を切り離して論じることは不可能で、上野さんのご批判自体が質問状に対する基本的な誤読にもとづくものと言わざるを得ません。
II 「回答」に対する懸念
1.流入制限と移民の権利保護の関係
上野さんは、難民を除く移民流入に対して制限的な政策をとりつつ、社会民主主義的な分配の強化が必要という立場をとっておられます。これは、現時点で居住するエスニック・マイノリティの権利は尊重すべき、と理解できます。しかし、これを両立させるのは至難の業ではないでしょうか。
現実をみると、欧州の極右政党は1980年代には「反移民」と「自助」を合わせた主張をしており、福祉国家に批判的な立場をとってきました。それが、欧州統合により欧州懐疑主義を前面に打ち出すようになってからは、むしろ国民の保護=分配の強化を強調するようになっています。しかし、そこで分配の強化の対象となるのはあくまで「国民」であり、住民たる外国籍の人や当該国籍を持つ移民ルーツの人はしばしば排除の対象となってきました(福祉ショーヴィニズムの発動は、常に民族・人種・国籍による排除を伴うものです)。とりわけ日本の場合、エスノ文化的な「国民」理解が主流であり、異なるルーツの者に排他的に作用しがちです。
こうした国内外の「現実」を踏まえると、外に対して排他的な政策をとる国が、内なるマイノリティの権利擁護に熱心であると考える理論的・現実的な根拠がどこにあるのか、上野さんのご回答から読み取ることはできませんでした。
2.上野さんと「新しい人種主義」の近似性
上野さんの回答を読んで、私たちが一番危機感を持ったのは、(現役の政治家ならマリーヌ・ル・ペンのような)欧州の極右が用いる新しい人種主義の論理ときわめて近いことでした(Balibar
& Wallerstein 1990)。その論理に従えば、個々の文化的共同体は「差異への権利」を持つ、それを守るには国境を越えた文化の交雑を避けるべき、となります。フランスの極右は「多文化主義の真の擁護者」を自称していますが(Mudde
2007: 191)、それは移民を受け入れないのが相互にとって幸せという理屈によります。
上野さんは、日本(人?)にとってよくないとして移民受け入れに反対されるのか、移民にとってよくないとして移民受け入れに反対されるのか、つまびらかにしていません(そうした二分法自体が非現実的ですが)。が、どちらであっても「差異への権利」にもとづく新しい人種主義です。くわえて後者の場合、移民にとっての幸福を他者が決定するパターナリズムでもあります。
また、上野さんは「(移民の問題は)政治的に選択可能」であり、「移民の大量導入に消極的ですし、その効果についてかつてよりも悲観的になってきました」と言います。この主張は、たとえ「国内に在住している外国人に出ていけということを意味しません」と留保をつけたとしても、「出ていけ」という効果を持ってしまいます。移民が差別され周辺化するのは目に見えているから来させてはならないという言説は、日本で差別される外国人は帰国したほうがよい、という言説に容易に換骨奪胎されてしまうでしょう。というのも、「移民受け入れ」に反対する主張は、前述のように非現実的であるだけでなく、「移民・外国人=否定すべき存在」というメッセージとして機能するからです。
そして、こうした主張は、しばしば国内にいる移民や外国ルーツの者にたいする排外主義的暴力を引き起こしてきました。上野さんも言及されるドイツでは、1990年代に難民への暴力が続発しました。これは、(上野さんのような)影響力のある人が、庇護権の見直しなど難民への否定的な言説を広めたことが大きな原因となっています(Koopmans
and Olzak 2004)。お手軽に反移民を表明しているようにみえる上野さんに公開質問状をお送りしたのも、軽率な意見表明が排外主義を促進する効果を持つとの懸念を持ったからに他なりません。
3.「国民主権」の全能性について
上野さんの議論は、岡野さんも指摘されているとおり、移民管理における「国民主権」の全能性を信奉しているようにみえます。しかし実際には、主権は、全能な「至高の権力」ではなく、移民ネットワーク、国際規範、外交関係、社会の道徳規範などによって規定される社会的・歴史的産物にすぎません(Ngai
2004)。主権が全能でないことは、各国に存在する非正規移民が端的に証明しています。とはいえ、日本の場合、国家、正確には入国管理局は、「至高の権力」としての主権であるかのように振る舞い、大幅な裁量のもと外国籍者を管理・追放してきました。また、マクリーン判決に代表されるように、裁判所もそうした「至高の権力」としての主権という神話を追認してきました。こうした状況において、「国民主権」の全能性を当然視する言説は、入管局の振る舞いにお墨付きを与え、民族的マイノリティを抑圧する政治的効果をもたらします。
またこうした主権の全能性についての信奉は、移民の存在を「国民」による操作もしくは保護の対象としてのみ捉える議論につながっています。上野さんの回答において、移民は「国民主権」によってどうとでもなる存在として位置づけられ、彼・彼女らの行為者性(agency,
行為する力)はまったく無視されています。具体的には、それは、移民の数量規制を云々する箇所にくわえ、「わたしたちが外国の人たちにどうぞ日本に安心して移住してください、あなた方の人権はお守りしますから、と言えるかどうかも」というパターナリスティックな記述に表れています。
しかし、在日コリアンの権利獲得の歴史ひとつ振り返っても、「日本国民」が彼・彼女らの人権を率先して「お守り」したことがあったでしょうか。むしろそれらの権利は、国際的な圧力にくわえ、当事者自身による身をかけた闘いによって獲得されてきたのではないでしょうか(朴君を囲む会編
1974; 田中 2013)。私たちが関わってきた移住者支援運動も、当事者による運動の蓄積の上に成立しており、上野さんのようなパターナリズムは規範として問題があるだけでなく事実としても間違いです。
4.移住女性は女性ではないのですか
上野さんは、「EPA 協定で年間 500 人の看護・介護労働者が入ってきましたが(中略)、これが年間 5 千人、5 万人の規模なら、どうなるでしょう。」と書かれています。これは、端的にいって、事実認識上の間違いがあります。というのも、年間数百人のEPA労働者とは別に、定住する国際結婚女性やシングルマザー、フィリピン等から来日した日本人男性との間に生まれた子どもと母親など、すでにケア労働の現場で働く移民は数万人を超えると推測されるからです(野口
2015; 高畑 2009)。くわえて、2016年には、「特区」における外国人家事労働者の受け入れおよび在留資格「介護」が創設されました。また「介護」分野における外国人技能実習生の就労も2017年中に始まることが決定しており、今後ケア労働に従事する移民はより増加することが見込まれます。
この点に関して、ベル・フックスの「私は女性ではないのですか」という問いかけ(bell hooks 1982)を思い起こさざるを得ません。この言葉は、移民受け入れより「平等に貧しく」を主張する上野さんにも向けられるのではないでしょうか。上野さんは、移民がいなければ日本人女性が手を汚さずにすむと考えているようです。これは、すでにケアワークに多くの移住女性を巻き込むことで成立している現実を見ないで済ますことができるミドルクラスの日本人女性には、心地よい言説となるかもしれません。しかし、すでにケアワークに移民が参入する経路が確立しているなかで、ことさらに「日本人」と「移民」を区別することは何をもたらすのか。「日本人」ケアワーカーと移民ケアワーカーの労働条件の違いを正当化し、両者の連帯を阻害することで、結果としてケアワークの労働条件自体をあげることをも困難にするのではないでしょうか。
私たちは、上野さんが単純化された二分法に取り込まれてしまい、結果的に排外的なメッセージを発していることに危機感を抱いています。机上の空論に振り回され、排外主義の片棒を担ぐより前に、今ここにある現実の複雑さを引き受けた上で、ありえる選択肢を模索するのが社会学の役割ではないでしょうか。
Ⅷ.「日本社会のフェミニズム」の人権意識 上野千鶴子さんのインタビュー記事および回答をめぐって 木村涼子2017.02.24 Fri
○はじめに
上野さんが、このWANのみならず、ジェンダー・スタディーズに関心をもつ方々をつなぐ活動、ヘイト・スピーチと闘う「のりこえねっと」の活動もされておられることなどに敬意を抱いてきました。しかし、中日新聞・東京新聞(2月11日)「この国のかたち」でのインタビュー記事(以下、「記事」)、および、「記事」に対する「移住者と連帯する全国ネットワーク(移住連)」からの公開質問状への回答(以下、「回答」)には、見過ごせない問題が多々含まれていると考えます。(なお、以下、「記事」「回答」からの引用には「 」を、「記事」「回答」や他の方々の意見、あるいは、ありがちな差別言説をまとめて表現した部分には< >をつけて区別いたします。)
私は「記事」が掲載された翌日に拝読し、周囲の方々との対話でもインターネット上でも批判的意見を表明しましたが、多様な観点から充実した議論をうかがうことができ、さまざまな場での言論の活発さにはげまされました。
そもそもの「記事」と同じく、今回の「回答」に関しても問題としたい点はあまりに多いのですが、<移民は選択できる>という捉え方については岡野さんが、<ジェンダーとセクシュアリティは選択できない>という捉え方については清水さんが、それぞれに的確な批判を、また稲葉さん・高谷さん・樋口さんが移民問題全般について丁寧な文章を投稿しておられるので、私は人権意識ということに焦点を当てて書きます。とはいえ、他の方と重複する部分が生じることはお許し下さい。
これは上野さん個人の言説を批判するだけではなく、フェミニストの中にある、上野さんの「記事」や「回答」を擁護する傾向、つまり日本社会におけるフェミニズム全般への懸念を表明することも兼ねています。
○「記事」および「回答」は、移民排斥主義の現状認識ではなく是認であること
最初の「記事」において、上野さんは「日本はこの先どうするのか。移民を入れて活力ある社会をつくる一方、社会的不公正と抑圧と治安悪化に苦しむ国にするのか、難民を含めて外国人に門戸を閉ざし、このままゆっくり衰退していくのか。どちらかを選ぶ分岐点に立たされています」と、日本の将来をかなり恣意的な二分法にして<どっちをとるのか>と述べておられます(これが、構築物としての性別二分法を批判してきたフェミニストの発言とは皮肉なものだと、個人的に悲しく思いました)。
私は、上記の文章の中の、<移民を入れると、社会的不公正と抑圧と治安悪化に苦しむ>の箇所が、典型的な排外主義言説、ヘイト・スピーチと受け取れるため、見過ごせないと考えました。同様の批判はさまざまなメディアで数多くみられたと思いますが、それに対して上野さんの「記事」を擁護する文脈で海外を例として<移民が流入すると地域が荒廃する、社会問題が発生する>と語る、フェミニズム関係の活動家や知識人も決して少なくないことに、さらに驚きました。そして、それと同様の趣旨のことを、上野さん自身が「回答」の中で本格的に展開されました。
「回答」で上野さん自身「移民先進国で同時多発的に起きている『移民排斥』の動きにわたしは危機感をもっておりますし、日本も例外とは思えません」と現状認識を語っておられます。<だから、移民受け入れには反対だ>と意見を述べておられます。
現状を客観的に認識することと、是認・肯定することは違います。「記事」でも「回答」でも、移民排斥主義を<しかたのないこと>として是認・肯定し、移民増加反対の意思表示を明確にしておられます。
○差別発言のレトリック
犯罪や社会的混乱と移民排斥の正当性を結びつける論法は、<被差別部落のひとびとは乱暴で、貧しく、学歴も低い、怠け者だ、モラルを共有しないetc.
〜だから差別されても仕方が無い>(被差別部落のひとびとを、黒人あるいは在日コリアンと言い換えてもよい)という、部落差別の正当化の論法とそっくりです。「被差別部落のひとびとは〜」の部分は、差別に基づく偏見や先入観と、差別の歴史的蓄積から被差別部落の(一時的な)特徴となっている点が混同されており、それこそが巧妙なレトリックとなっています。そうした差別のレトリックは、部落解放運動のみならず、女性解放運動も含めて、あらゆる反差別運動が問題にしてきたことです。
「回答」においては、<移民が増えると犯罪が増える>のではなく<移民が増えると排外主義が激化して社会的混乱が生じる>と言い換えておられますが、これは、上野さんの「記事」の中の「日本人は多文化共生に耐えられないでしょう」という言葉に対応しています。移民を受け入れなければ、差別が生まれないかのような発想です。それは、被差別部落のひとたちが、解放運動などせず、「融和」して不可視化すれば、差別がなくなるという発想と似ています。これは、在日コリアンの運動や障害者解放運動の歩みでも、闘いの対象となってきた発想です。
被差別者の存在をなくしたとしても、差別意識や差別を再生産するシステムは残ったままです。システムや意識が残存する限り、差別は別の形でうみだされるでしょう。
移民に話をもどすと、上野さんが言うように「日本人」(とは誰のことなのか)が、多文化共生できない文化(?)民族性(?)を持っているとするならば、現に存在する移民、多様な文化的ルーツやルートをもつひとびとの人権を尊重することができるのでしょうか。
そのような文化やシステムの下では、移民のみならず、誰の人権も守れません。
○状況は変革できる − 変革を妨げる差別発言やヘイト・スピーチは許されない
かつての部落解放運動や障害者解放運動が、一時「過激」な糾弾闘争やデモンストレーションをしなければならなかったのには、それなりの理由がありました。それらは<変わることができない(ようにみえる)被差別状況・抑圧状況>を変えるためにおこなわれました。
フェミニズムも「過激」でないと前にすすめない時代があったではないですか。それらを超えて、21世紀の今があるはずです。
現に日本に住む外国籍(元外国籍)のひとびとの人権をどう守るのか、地域や社会全体での多文化共生をめざす運動や実践、研究や教育活動が存在し、反ヘイト・スピーチ運動が活発におこなわれている中で、犯罪や社会的混乱と結びつけて、あるいは<日本人には多文化共生は無理だ>という理由において、移民排斥を肯定する言説を公の場で表現することは、ヘイト側に与する差別発言、ヘイト・スピーチそのものだと考えます。
人を差別する言論・思想の自由を公の場では存在させてはいけない。それこそ、フェミニズムが闘ってきたことです。何が差別なのかについては、もちろん文脈も時代状況もかかわってきますから、開かれた場で議論すべきです。そうした原則を踏まえた上で、現在のように移民排外主義が強まる一方で、それと闘う勢力がある状況であるにもかかわらず、排外主義を肯定する「記事」と「回答」は、ヘイト側に与することになるということが私の見解です。
きちんとした法制度やシステムをつくることなく、移民を「安価で雇用調整しやすい」労働力(それは女性の立場と似ている)として受け入れた場合に生じる混乱は、国内のみならず国際的な経済格差が生み出すととらえる視点が必要です。上野さんの主張が<世界中のひとびとが等しく貧しくなろう>ということであれば理解できなくはないし、その困難さは<日本社会内で等しく貧しくなろう>といった場合とそれほど変わらないと思います。
わたしたちは、異なる属性をもち多様な、すべての個人の人権尊重を、身近な地域においてもグローバルなレベルにおいても求め続けなければならないはずです。
理念なくして、現状改革はできません。
○最後に フェミニズムとアンチ排外主義の連帯
以上のことは、私にとってはすでに議論つくされた、実にシンプルな反差別の認識枠組みなのですが、それらを容易には共有できないフェミニストやジェンダー研究者が案外と多いということに、今回気づき、フェミニズムの時間は大きく逆行しているのかと眩暈に似た感覚を抱きました。このエッセイで、排外主義のみならずヘイト・スピーチという「過激」な言葉を使うのは、こうまで言わないとわかってもらえないのではないかという危機感からです。
上野さんは「回答」の中で「誤読」を主張されています。「記事」しか公開されていなかった段階では、私の周囲にも、上野さんが排外主義者のわけがないと、「誤読」の可能性を主張された方々もいらっしゃいました。しかし私自身は、「回答」を拝読し、「誤読」したわけではないことを確信するに至りました。
先日のトランプ 大統領就任翌日に世界中で開催されたウィメンズ・マーチは、フェミニズムと アンチ排外主義(や他にも、もろもろの差別や社会問題と闘う勢力)が連帯していました。そうした動きについて、近年の日本のマスメディアは表層的にしか報じなかったり、無視したりする傾向があり、私たちにはアンチ排外主義の勢力が見えにくくなっています。
この状況を変えたくて、WEBRONZA(朝日新聞社)に以下の記事を寄稿しました。カナダに住む友人の投稿もぜひ読んでいただきたく、以下に紹介させていただきます(WEBRONZA会員でないと、あるいは朝日新聞のデジタル会員でないと全文は読めないので恐縮なのですが、ともかく最初の方はどなたでも読んでいただけますので紹介させてください)。
Ⅸ.ふくざつなことをふくざつなままに ちづこのブログNo.114
2017.02.26 Sun
移住連の方たちからのご意見にあらためて回答いたしましたので、その内容を、WANで公開いたします。
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稲葉奈々子さま 高谷幸さま 樋口直人さま
2月22日付けメイルで、連名での意見書を受け取りました。
熟読いたしました。研究の蓄積にもとづいてじゅんじゅんと説きおこしてくださる文面は説得力があり、専門家の力を感じました。「排外主義に陥らない現実主義の方へ」というタイトルにも好感を持ちました。
○I部「リプライ」の1について。わたしは人口問題についてはいくらか知見がありますが、移民問題についてはしろうとです。安部政権の人口政策、人口1億人規模の維持と希望出生率1.8がどのくらい根拠のない数字かは指摘できますが、その代わり「移民1千万人時代」がどのくらい現実性のないシナリオであるかも、ご指摘を受けてよくわかりました。人口現象はふくざつな要因連関の帰結であり、政治的に管理することはできないし、介入すべきでもないことを論じるにもいくつもの前提が必要ですが、同じように移民という現象についてもふくざつな要因があり、1国の政治的選択だけで容易に変わるものではないことも理解できました。ここまでに移民先進国における研究の蓄積があることも、教えていただきました。こういう複雑な議論を、「人口の自然増か社会増か?(出生率向上か移民増加か?)」という二者択一の議論に単純化した(のは保守派ですが)論調にのせられてしまったことは、うかつでしたし、反省すべき点だったことを教えられました。 その点でご指摘の1には、同意します。
ご指摘の2にある「経路依存性」についてはまったく同感です。「これから」がフリーハンドであるとは思ってもいませんし、そう言ってもおりません。「これまで」の日本の移民の処遇をめぐる「経路依存性」があるからこそ、「これから」も日本が(他の移民先進国にくらべても)移民処遇について適切なふるまいをするとはとうてい思えない、という悲観的な「蓋然性」の予測については、むしろ経路依存性から説明できるのではないでしょうか。
II部はわたしがブログで公表した論点に対する新しい「懸念」のご指摘でした。
1は「福祉ショービニズム」について。あらゆる福祉国家が多少なりとも福祉ショービニズムを持っていることを現実に否定することはできません。が、それにも程度の差があります。日本の国民健康保険と国民年金はその名称どおり、成立当初「国民」を条件としましたが(後になって国籍条項は廃止されました)、介護保険は、成立の当初から加入者を「国民」に限定しませんでした。介護保険に国籍条項がなかったことをわたしは評価していますし、それは過去の闘争や改革の成果でした。とはいえ、「保険制度」が非加入者を対象としないことは制度設計上の制約条件です。その限界を伴いつつ、わたしたちは少なくとも1900年代に介護保険という再分配制度に合意形成をしてきたことになります。
2の「新しい人種主義」との近似性のご指摘は、「結果として排外主義的な効果を持つ」ことへの懸念と受け取りました。「悲観的」な予測の持つ、政治的効果については、もっと慎重にならなければならないと肝に銘じます。
3の「国民主権」の全能性は、ご指摘のとおり、あたかも日本政府が「全能的国民主権」を行使するかのようにふるまっているというこれも「経路依存性」を前提しています。難民の取り扱いひとつとってみても人権無視の処遇が継続しています。そしてわずかな改善も、それに抗議する当事者と支援者の闘いの結果にほかならないという事実認識は、全くそのとおりです。「全能的国民主権」を所与として見ることに、警告を与えておられると理解しました。とはいえ、みなさま方の努力にもかかわらず、この国家の態度を変更することがこれほど難しいことは残念ながら事実ですが。
4のケアワーカーについては、誤解があります。日本のケア労働市場に日本人配偶者や在留許可を持った外国人(主として女性)労働者がすでに参入していることは承知しております。が、介護保険が要請する資格要件を満たした人たちだけが、同じ資格を持った日本人と同じ労働条件で働いており、この人たちに介護福祉士資格の受験条件を緩和せよといった議論は起きていません。ですがEPA協定で参入した外国人については、資格試験の合格率が低いことを予想して、帰国が予定されていた不合格者に「准介護福祉士」資格をつくるという脱け道を政府は用意しました。資格が細分化されれば、処遇も細分化され、序列化します。こういうかたちで介護現場の職位のハイラーキーが強化され、ただでさえ低賃金の介護職の下位に、さらに低賃金の「准」資格ができます(結局、これは実現しませんでした)。それだけでなく、介護保険下の準市場のもとで資格職として成り立っている現在の介護労働市場に加えて、保険外の家事・介護・育児の(無資格)自由労働市場が一定の規模で成り立てば、介護保険下にある(すでに問題だらけの)介護労働市場に、さらにネガティブな影響が及ぶであろうことは、想像に難くありません。違いは日本人か外国人かではなく、保険内労働市場か保険外労働市場かであり、新規に参入する外国人労働者が後者に参入する蓋然性は高いでしょう。
もういちど最初の問いにもどりましょう。わたしが提示したのは日本の人口問題の将来でした。人口の自然増に現実性がなく、それを移民で補完しようとするのは姑息なだけでなくこちらにも現実性がないとなれば、結論は人口減少を受け入れるしかありません。そして人口減少社会で再分配を強化しようというのが「平等に貧しくなろう」という提言でした。この見通しについては、今でも考えは変わりません。
移民に関しては精緻な議論をなさるみなさま方が、ジェンダーに関しては単純な一般化や極論をなさることにはいささか困惑しました。ご提言にあるとおり、「今ここにある現実の複雑さを引き受けた上で、ありうる選択肢を模索する」態度を、互いに持ち続けたいと願います。周到に用意してくださったご指摘に、多くを学ばせていただいたことに感謝します。
Ⅹ.「普通の人の排外主義」に声を届けるには―――上野千鶴子さん発言をめぐる議論から 牟田和恵2017.02.27 Mon
上野千鶴子さんの発言をめぐって議論が続いています。WAN上にも、これまで岡野さん・清水さん・木村さん、そして移住連の方々のご意見が寄せられていますが、それらのどれもそれぞれに素晴らしい論点、納得できる議論を提示しておられ、とても勉強になりました。上野さんの発言が、ご本人の意図はどうあれ、結果的に排外的なメッセージとして機能する、という移住連のご指摘はとくに大切と思いました。
こうしたことを十分に踏まえた上で、なのですが、しかし、私には、この問題を考える上で重要な点がこれまでの一連の議論の中では言及されていないように感じ、本稿を書くことにしました。それは、現在の日本社会にある、限定的な少数とは言い難い、排外主義的な傾向にどう向き合っていくか、ということです。
「日本スゴイ」を連発するTV番組がしょっちゅう流れ、本屋の目立つところに中国韓国へのヘイト本が並べられ良く売れていて、何か地域で問題があると「外国人のせい」とまことしやかに語られてしまう、、、。そしてこれらは、街宣車でがなり立てたり子どもに教育勅語を暗唱させたりするようないかにも極端な連中ではない、普通に社会生活を送っておられる人々、まさに私たちの隣人の中に見られるのです。こうした、いわば、「普通の人の排外主義」が、この社会にはもうだいぶ長いこと、広がっているのではないでしょうか。さらに、なんとも腹立たしく情けないことには、国家の最高権力者がその先導をしているような状況があります。
私は、今回、上野さんの新聞記事が出て批判が始まったころ、ツイッターでこんなツイートをしました。
「上野千鶴子さんの発言が批判されてますが、世界中から排外主義と批判されてるトランプの先を行く政策を続けてる首相が高支持率を誇っているこの国を客観的にみれば~、という話でしょう。それを変えていくべきというのは正論だが、それをわざわざ上野さんに言わせたい?記者の編集が不備なのは確かだが」(2/13)。
このツイートに対し、上野さんの発言と同様、排外主義の現状肯定である、というようなご批判もいただきました。このツイートには確かに、上述したような、上野さんのような著名な方の発言のネガティブな機能という点への留意が不足していたとは思います。しかし、日本に排外主義的傾向があるから移民を受け入れることは無理である、とまで言うことと、日本社会に排外主義を支持する傾向がみられると現状を認識することは違います。この現状を認識することは、現状を肯定することではなく、むしろ、現状をしっかりと正確に認識するところからしか、それを変えていく道は始まらないのではないでしょうか。
そしてこの懸念は、トランプ大統領の登場やイギリスのEU離脱という「民意」が欧米で示されていること、そしてそれが、大方の政治家や知識人、評論家はじめ多くの「良識ある」人びとの予想を覆すかたちで起っていることからも深まります。
大統領就任後も、アメリカではトランプに対して主要メディアの批判の声は高く、コメディトークショーでもほとんど毎日トランプの政治姿勢や手法の異様さが笑いのネタを提供しています。このようにメディアやジャーナリズムでは反トランプが主流のように見えるのに、しかしそれでも世論調査によると、外国人入国制限の大統領令は支持のほうが多数派なのです。
つまりここには、リベラルな言説は、正論であり続けているものの、必ずしも力を持たない現状が出現しているわけです(念のため申しますが、ここで「正論」と言っているのは、「PC」のように揶揄的・懐疑的な意味が含まれているのとはまったく違います)。しかもリベラルは、どのような人々がトランプを支持したのかその真意をくみ取れておらず(「低学歴」の「白人貧困層」がトランプに投票した、などというのは事実に反する偏ったステレオタイプに過ぎなかったということはすでに明らかです)、それらの人々の意識や願いを救い上げるすべを今のところ見いだせていないのが現状なのではないでしょうか。
私には、日本の「普通の人の排外主義」も、その連続で捉えることができるように思えます。そして今回の議論も、欧米でリベラルが抱えている困難と似た面をはらんでいるように思うのです。
今回、上野さんを批判してあがっている議論は、すべて正論で、より多様な人々に開かれた公正な社会に向けたものとして説得力のあるものです(私自身も強く賛同します)。しかし、それは、リベラリストや、現住であれこれからであれ日本に暮らす外国人・外国籍の方には伝わる言葉であるとしても、日本社会の「普通」の排外主義者に、果たして納得してもらえるか(言葉使いや概念の難しさは別にして、そのロジックが、ということです)、まったく容易ではないように思います(でなければ、現実にこれほど排外主義が広まってはいないでしょう)。そして、私自身も含め、リベラリストたちは欧米のリベラルと同様、「普通の排外主義者」たちの真意を理解し言葉を伝える努力をじゅうぶんにしてきているか、成果をあげられているか、と自省を込めて思うのです。
ことは移民・移住労働者をめぐる問題だけではありません。生活保護受給者に対するネガティブな見方、慰安婦問題についてどんどん厳しくなっていく世論、、、、挙げればきりがないほど、排外的で非寛容な傾向がこの十年以上、続いています。
私自身について少々自虐的に言えば、この日本社会で、「正論が届かない」ことには、悲しいことながら、慣れ切っていたのかもしれないと思います。ある意味、日本だからダメ、という日本特殊論に依存していたのかもしれません。それが、欧米で今起こっている事態を見て、あらためての危機感を深めている次第です。
現政権や経済界が、「日本の活力を維持するために」と打ち出している、外国人管理政策をどうやったらまっとうなものに変えていけるのか、それには、「普通の人の排外主義」を変えることが不可欠なわけですが、どうやったら変えていけるのか、どうアプローチしたらいいのか。
今回の一連の議論は、上野さんに向けてのものだったので、とくにそこに言及されなかったのは当然かもしれませんが、これを機会に、ぜひここから議論をしていきたいと思うのです。
移住連の皆さんはじめ多くの方々が、多様な人々が働き生きる公正な社会の実現に向けた実践的な努力を続けておられること(微力ながら私もその一員であるつもりです)は良く承知していますし、一昨年のSEALDsの若者たちの目覚ましい行動、世界的にはウィメンズマーチの盛り上がりなど、希望を託したい新たな芽も確かにあります。しかし、それは「普通の人の排外主義」を現実に変えていくところにまでまだ至っていないという現状認識をすることは、現状肯定だと否定されるべきではなく、むしろ私たちに強く求められるところではないでしょうか。この認識の上で上野さんは当初の新聞インタビュー記事では、「絶望」というか、悲観的な見方を表明されたのだろうと思いますが(これは私の勝手な想像ですが)、しかしこの間の一連の力強い発言に、あきらめるのはまだ早い、と思い直されたのではないでしょうか。
数十年まで、日本では、高齢者は嫁が介護するもの、という常識が根深く、女性たちを苦しめていました。その常識は、介護保険の導入でかなり変わりました(十分なものでは決してなく、それどころか改悪されようとしていることはとりあえず措いて、ですが)。これは、介護保険がいきなり上から降ってきて変わったのではなく、そこに至るまでには、女性たちの声、高齢化の人口圧、福祉セクターと厚生官僚のネゴシエーション、高齢者の票を取り込みたい政治家の思い、等々さまざまな要素の積み重ねがあり、制度の実現によってさらにいっそう人々の意識も変わったはずです。
移住労働者・移民問題は、今回移住連の方々から教示いただいているようにさらに複雑な要素がからみあってくることでしょうが、しかしそれでも、「普通の人の排外主義」を変えて多様な人々が公正に生きられる社会を実現するためには、多くのことを積み重ねていかねばならない、そしてそれは可能なのだ、という、前例(決して十分ではないとしても)のようにも思えます。
もう一点、今回の議論で言及されていなかったように思えることがあります。それは、移民や移住労働者の権利保障の一方で、「移動しなくともよい」世界を目指す方向性も重要ではないかということです。
たまたま生まれ落ちたところに拘束されるのは不条理、国家システム・国境そのものを取り払っていくビジョンを、という岡野さんが示された議論はとても魅力的ですが(それがどのように実現され得るか、そこで「市民権」はいかに保障されうるかなどの構想をぜひ伺いたいです)、しかし、移動の自由が保障される一方で、人には、生まれ育ったコミュニティに安心安全のうちに留まる権利、ということも保障されるべきでしょう。
この点で、現在の世界には植民地主義・帝国主義に由来する配分の不公正がある、だから移民によって分配の公正を、という考え方は、理解できますし現時点で必要なことだとは思いますが、中長期的に見てベストな道とは思えません。多くの人は、元の社会での困難の中で自身や家族を食べさせるため、教育を受けさせるために、しばしばその人のケアを必要としている子供や家族を残して移動しています。こうした「選択」が移住労働の背後にはありがちなことを思えば、個々人に配分を求めて移動の道を選ばせるよりも、非常に困難なことは言うまでもないですが、世界の富の配分の不平等を変えること、今貧しい地域に産業や仕事を創り出し富の偏在を改めていくことの方が、より重要ではないでしょうか。人には移動の自由もあってしかるべきですが、能力をより適した社会で開花させるため・新たな挑戦がしたいから、などの真に自由で積極的な理由でなければ、生まれ育ったコミュニティから、「移動しなくてよい」ことも、人権に含まれるはずです。「まったく自由な移動」と「余儀なくされる移動」とが完全に二分されると考えているわけではありませんが、その上でも言えることだと思います。
この点で、移住者の権利の実現という差し迫った課題の実現と、中長期的なビジョンで世界を変えていく両にらみがどうしても必要だと思います。
以上の2点のいずれも、上野さんはじめ皆さん、議論に参加されている方は当然お考えのこととは思いますが、しかし、直接の論点としては出てきていなかったので、あえて記す次第です。
XⅠ.研究者による運動のあり方を、フェミニズムに学ぶ 樋口直人
2017.03.15 Wed
公論形成のために2017年2月11日付中日新聞に出た上野千鶴子さんのコメントに端を発する論争は、韓東賢さんの2月12日付ヤフーニュースが先鞭をつけましたが、主にはWANのホームページで展開されました。移住連貧困対策プロジェクトは公開質問状を送付したものの、スピード重視の一夜漬けで作成して13日に出したため、かなり詰めが甘いものでした。
それが当初の上野さんの「門前払い」的な回答につながったのでしょうが、岡野八代さんと清水晶子さんから相次いで投稿がなされたのは驚きでした。あるフェミニスト研究者は、フェミニズムとレイシズムについて議論を避けてきた結果がこれだという意見でしたが、内部できちんと声が上がるところにフェミニズムの力を感じました。再応答を書く気になったのは、移住連内部で主導した髙谷幸さんの熱意と、岡野さん、清水さんの誠意によるものです。
お二人の投稿は、単に内部からの声というだけでなく、当初の質問状の不備を補い、それぞれの専門知にもとづきフェミニズムのあり方を問うものでした。上野さんの立論が持つ「ナショナル・フェミニズム」的なバイアスをお二人は批判しつつ、フェミニストとしてあるべき姿を真摯に提示しています。特に、「マジョリティの問題—の解決を、マイノリティの権利の制限によってはかろうとするのは、フェミニズムの根本と矛盾」という清水さんの波及力ある総括には教えられました。
その後、私たちの再応答、北田暁大さんの論考、木村涼子さんの投稿、上野さんの再回答が続くことで、小さな公共圏ができつつあるのを実感してちょっとした興奮を覚えたものです。再応答を用意するに際しては、上野批判を超えた公論形成に結びつけるべく、「移民受け入れ」を考える際の一般的な誤解を晴らすことを意識して書くようになりました。
特筆すべきは、北田さんの論考以外はWANのサイトで議論が続いたことです。再応答に際しては個人名(稲葉・髙谷・樋口)で書いていたため、移住連のホームページを使うのは現実的ではなく、掲載のあてもなく執筆していました。どうしようかと思っていたところで、WANのサイトに掲載しないかとお誘いを受け、上野発言への再批判にあたる文書を公開できたわけです。
上野さんのヴァーチャル研究室があるWANにおいて、上野批判とそれへの応答が展開されたこと自体、移民研究者として学ぶところが多くありました。WANのサイトに誘導することで、フェミニズム、上野さん、移民、社会学と異なる関心を持つ読者が、問題を考えることができたのですから。これは、WANの発想の健全さとセンスの良さによるものでしょう。これをもって、「上野千鶴子の炎上商法」といわれる向きがあるかもしれませんが、残念ながら移住連にはそうした機をとらえる「商才」がありません。移民研究者も、こうした形で公に議論する場を用意することも、そうした発想を持つこともありませんでした。
周回遅れの認識を糾す
他方で、牟田和恵さんの「『普通の人の排外主義』に声を届けるには」で一連の議論を終えることについては、異を唱えざるをえません。「日本社会に排外主義を支持する傾向がみられる…現状をしっかりと正確に認識するところからしか、それを変えていく道は始まらないのではないでしょうか」と牟田さんは書かれています。一連の議論に参加した者としては、なぜこのような大前提をことさらに繰り返すのか、戸惑いを覚えざるをえません。
私自身は、2011年から日本の排外主義(とりわけ在特会)について調査してきました。今世紀に入って跋扈する排外主義は、在日外国人に対する直接的な敵意から生まれたのではない、というのが調査の知見でした。1990年代以降の近隣諸国との関係悪化――とりわけ歴史問題をめぐって――が、日本の排外主義の根底にあります。この排外主義の核を作り出しているのが右派の政治家や論壇で、その言説がインターネットで外国人排斥へとデフォルメされたのが、在特会の正体ともいえます(『日本型排外主義』名古屋大学出版会、2014年)。
その意味で、日本で排外主義が台頭したのは、右派エリートの台頭がもたらした「意図せざる結果」であり、「上から」の動きが生み出した性格を強く持ちます。それと同様に、上野さんのような影響力がある論者が不用意な移民受け入れ反対論を述べたからこそ、批判せざるを得なくなりました。さらに、政治、ジェンダー、排外主義など細かな領域ごとに、何がどの程度まで右傾化したのかを検証する試みも、すでに始まっています(塚田穂高編『徹底検証 日本の右傾化』筑摩書房、2017年)。
牟田さんが現状を悲観している間に、日本の排外主義の傾向と対策に関する研究は進んでおり、それを前提として上野批判がなされました。「『普通の人の排外主義』を…どうやったら変えていけるのか、どうアプローチしたらいいのか」という牟田さんの嘆きは、いわば周回遅れの認識です。牟田さんが並走していると思っていた人たちは、すでに一周先を行っているわけで、それを踏まえてご自身の立ち位置を定める必要があったのではないでしょうか。
牟田さんがもう1点出されていた、「『移動しなくともよい』世界を目指す方向性」については、サスキア・サッセンのデビュー作『労働と資本の国際移動』(岩波書店、1992年)だけ読んでも、まったく成立しないことがわかります。経済開発が移民を誘発する要因であることは、移民研究では広く知られてきました。実際、世界でもっとも移民を送出しているのは、OECD加盟国であるメキシコです。2016年時点で日本の超過滞在者・国籍別第一位は、購買力平価でいえば日本とほとんど変わらない韓国です。
今回の移民をめぐる一連の討議過程は、それまで相見えることのなかった人たちが、異なる背景的知識をもとに参入することで、内容豊かなものとなっていきました。そのなかで、間接的に上野擁護を企図したであろう牟田さんの投稿は、ご自分の常識に安住したとりとめのないおしゃべりを文字にした程度の水準です。裏付けのない思い付きを書いてはいけませんよ、とゼミ生たちに繰り返してきた言葉を牟田さんにも向けねばならないのが残念でなりません。
研究者による運動のあり方を学ぶ
と、牟田さんを批判する一方で、移民研究者はフェミニストから学ぶべきことが多くあるな、と気づかされもしました。セクハラという言葉が定着し、一定の規範を形成する過程でフェミニストが果たした役割は大きい。組織の行動指針にするに際してフェミニストは大いに活躍してきたわけですが、移民研究者はそうした活動をほとんどできていないからです。
移民研究者を自任する者が初めて一定規模の運動を組織したのは、1999年になります。この年には、非正規滞在状態にあった25人の外国人が、在留特別許可(在特)を求めて入国管理局に自主出頭しました。それを支援する研究者が、入管に対して在特を出すべきという運動を起こしており、私も呼びかけ人の1人になりました。声明への賛同署名を集めるなかで、私は上野さんにも依頼しています。メールアドレスを知らなかったので、東大あてに手紙をお送りして賛同をお願いしたところ、賛同人に名前を連ねていただきました。
ことの経緯は、『超過滞在者と在留特別許可』(明石書店、2000年)にまとめましたが、まとめ役の駒井洋さんも、上野さんの賛同を特筆すべきこととしています(私自身は、その時から上野さんが変わったとは思いませんが、「移民受け入れ」については懸念を持ったので公開質問状の作成に加わりました)。
その後も、強制送還をめぐる裁判支援、朝鮮学校に対する弾圧をめぐる支援といった形で移民研究者の運動は続いてきましたが、個別案件をめぐる散発的なものにとどまってきました。フェミニストが組織内部を変えようと続けてきた運動に近いのは、民族学校卒業者の大学受験資格問題くらいなものです。移住連貧困プロジェクトでは、その発想の延長で外国人特別入試を求める運動を始め、宇都宮大学国際学部が国公立大学で初めて「外国人生徒入試」を導入するに至りました。
しかし、移民研究者にできる運動はそれだけではないのだな、と牟田さんについて書きながら思わされました。キャンパスセクハラへの対応は、レイシャル・ハラスメントのまさに先行例にあたります。セクハラが問題化する以前に横行していたのと同様、日本の大学で外国人や民族的マイノリティがハラスメントを受けるがままになっていたのが放置されてきたわけですから(そうした目で見ると、いくつもの事例が思い浮かびます)。同志社大学や立命館大学では、教員が自主的にレイシャル・ハラスメントの問題に取り組んでいますが、本来はセクハラのように大学が標準装備すべきことでした。
これは、フェミニストからみればまさに周回遅れの認識でしょうが、移民をめぐる過去の運動からは出にくい発想でもあります。その意味で、期せずしてウェッブ上で起こったフェミニストとの邂逅が、自分の領域で凝り固まった思考をほぐす機会ともなったことに感謝しつつ、今後の指南を乞う次第です。
XⅡ.階級・人種・ジェンダーの交差を読み解く移民研究を切り開くために 稲葉奈々子
2017.03.26 Sun
シスターフッドと国境線
2017年2月11日に中日新聞に掲載された上野千鶴子さんの「平等に貧しくなろう」と題する投稿に対する、私たち(稲葉奈々子、髙谷幸、樋口直人)の公開質問状で始まった議論の過程で、上野さんには2度にわたって応答していただきました。またWANのHP上で、フェミニストの皆さんによる関連する議論が展開されたことで、移民研究とフェミニズムの出会いがあり、社会運動と研究のあり方について大きな示唆を得ることができました。
私自身は、フランスをおもなフィールドとして研究をしながら、移住連の活動をつうじて、海外とくにフィリピンの移住者支援のNGOと付き合いがあります。日本のNGOと、日本に出稼ぎに来る外国人労働者の出身国のNGOが交流するようになった1990年代、特に北京女性会議は、国境を越えた女性運動の連帯を感じさせるものでした。しかし、日本人女性の活動家から、「日本とフィリピンの間に圧倒的な力関係の差があるのに、脳天気に日本人のほうからフィリピン人女性たちにシスターフッドとは言えないのでは」と指摘され、フェミニズムが植民地主義や移民の問題にどうアプローチするのかに関心を持ってきました。
日本の外国人労働者問題はまず「じゃぱゆきさん」問題としてはじまり、「アジアの女たちの会」などのフェミニストが、植民地主義の問題の延長で「じゃぱゆきさん」を捉えており、そうした立場から学ぶところは大きかったです。欧米ではブラック・フェミニストなど当事者が指摘することを、日本の場合は1970年代末にすでに日本人フェミニストが論じていたともいえます。そうしたフェミニストたちから、私は研究者として移民女性に対してどのようなアプローチがありうるのかを学びました。
移民女性は欧米に移民することで「解放」されるのか
フランスやアメリカの研究では、移民女性が移民先の国で「解放される」という仮説があります。出身国よりも民主主義の度合いが高い国に移民する場合が多く、そこで男女平等など民主主義的な価値観に触れて、移民女性が「解放」される、と。本当にそうなのかなあ、なんだか盗っ人猛々しいというか、傲慢な理論にも思えたのですが、「アジアの女たちの会」のアプローチは、1990年代の私のそうした疑問に答えてくれるものでした。
日本で介護労働に従事しているジャパニーズ・フィリピノ・チルドレン(JFC)の母たちは、もとをたどれば1980年代末に「じゃばゆきさん」つまりエンターテイナーとして来日した女性たちです。このことだけとっても、日本への移民の流入は、ジェンダーの問題さらにはフェミニズムのテーマと切り離して考えることはできません。しかし実際には、相互に学問的な交流がほとんどないままでした。
その背景のひとつとして、フェミニズム理論が複雑化しすぎて、すぐには移民研究に応用できないという問題があります(クィア理論などには、まったく対応できていません)。移民については、セクシャル・マイノリティついての言及がされることもありますが、基本的には素朴に「女性」と「男性」しか想定されていないのが現状です。
ふたつめには、賃金が安く、女性の地位を下げるような「女の仕事」に従事したり、男性に従属的とみなされる文化・宗教実践をすることを、フェミニストの価値観と相反するとみなすかどうかの問題もあるのではないでしょうか。これはフランスをフィールドとして移民研究をしていると直面する問題です。ムスリムのスカーフをした女性やセックス・ワーカーは、3月8日の国際女性デーにパリの共和国広場から出発する「公式」のデモから排除されていると感じてきました。その結果、彼女たちは4年前から独自にデモを組織するようになっています。彼女たちは、現在のフランスのフェミニズムが、人種差別、階級差別、トランスジェンダー・フォビア、レズビアン・フォビア、セックス・ワーカー・フォビア、イスラモフォビアのいずれをも解決できないとし、自分たちのフェミニズムは、これらの差別と暴力の直接の被害者である当事者たちが決めた運動の方針に基づいて闘っていくと宣言しています。
移民などマイノリティ女性を差別する論理はイギリスにもみられます。アンジェラ・マクロビーは、男性と同程度に高等教育を受けるようになり、「女の仕事」に就かなくてもすむようになったミドルクラスの白人女性が、「女の仕事」に就くマイノリティ女性に差別的だと指摘しています(Angela
McRobbie, 2009, The Aftermath of Feminism, SAGE)。ミドルクラスの白人女性からすると、「女の仕事」に従事したり、男性に従属的な文化・宗教実践をしている女性は、自分たちより劣った憐れみの対象でこそあれ、連帯の対象たりえない、と。西欧的民主主義の価値観に適った行為者でなければ、まだ「解放」途上と見なされてしまうわけです。
しかし、移民女性にしてみれば、生きていくため、家族を養うために選択している行為が、「フェミニスト」の運動に合致しないならば、フェミニズムのほうが、彼女たちのリアリティにあっていないともいえるのではないでしょうか(Patricia
Hill Collins, 2000, Black Feminist Thought, Routledge)。
構造だけでなく、個人だけでなく
植民地主義に基づく構造的な差別を考慮する「アジアの女たちの会」のようなアプローチは、理論的には、今日のジェンダーと国際移動研究では「古く」なった印象が否めないのも事実です。移住女性は構造に規定される被害者としてのみ存在するのではなく、女性個人の行為者性に注目する研究が主流になっています。実際、人身売買で「債務奴隷」状態でセックス・ワークに従事させられて警察に保護されても、本人はブローカーを訴えるどころか、借金の返済を気にかけ、さらには日本に連れてきてもらったことに感謝の意を表明することすらあると、支援者たちはしばしば指摘します。それならば、「そういう仕事を選択しちゃダメ」、と言って済むほど単純ではないことは、先だっての私たちの応答のなかで述べました。
しかし、行為者性に注目するだけでは、なぜ日本の外国人登録者のうち、フィリピン人が中国、韓国・朝鮮に次いで3番目に多い外国人となり、その8割近くが女性なのかを説明することはできません。また、なぜ彼女たちの仕事が、セックス・ワーク、介護、家事、清掃、クリーニングなど特定の職種、しかも「女の仕事」に集中しているのかも説明できません。
移民女性、ひいては階級的・人種的マイノリティ女性が条件の悪い「女の仕事」に従事しているという事実が、もっと学問的に掘り下げて検討される必要があるのだと思います。
「階級」について言えば、日本においては移民女性だけでなく、シングルマザーの運動課題についても、フェミニストは関心を示してこなかったと「しんぐるまざあず・ふぉーらむ」の赤石千衣子さんが指摘しています(赤石2009「シングルマザーの現状と課題そして日本女性学会とすれ違い」『女性学』17号)。セックス・ワークも家事労働も、フェミニズムのなかでは一大論争を巻き起こしてきたテーマです。「売春婦」や「お手伝いさん」とされる仕事を、「セックス・ワーク」や「家事労働」、つまり「労働」として定義し、そこに従事する女性たちを「労働者」として位置づけてきたのもフェミニストです。
しかし、これらの仕事に従事するのが、しばしば移民女性やシングルマザーなど、階級的、人種的にマイノリティ女性であることが、フェミニズムの観点からは十分に考察されなかったのではないでしょうか。階級・人種・ジェンダー・セクシュアリティの交差は、マイノリティ女性の運動と研究では、1980年代から「インターセクショナリティ」の問題として取り組まれてきましたが、日本でこのアプローチを深化させるためには、フェミニズムから移民研究を鍛え直していく必要があることを痛感します。
今回の議論で、フェミニスト的思考から多くを学ばせていただき、国際移動研究に足りないところも、あらためてよく分かり、感謝しています。フェミニズムは、何を発言してもリアルな政治に直結してしまう運動である緊張感が、今回、フェミニストの皆さんの議論から伝わってきました。一方で日本人による移住者支援にも研究にも、そうした緊張感がそれほど共有されていないことが、今回の経験から思い知らされ、今後の課題を認識できたという副産物もありました。