◆「多文化共生」は可能か 教育における挑戦 馬淵仁(編著)勁草書房より ~第5章 共生社会形成をめざす日本語教育の課題(要約 抜粋)~○(地域日本語教育は)地域の隣人(外国人住民)のためにと始めた支援活動であるが、学校的な枠組みの日本語教育によって、同じ地域の住民である日本人と外国人が「教える-教えられる」「支援する-支援される」関係に固定される。外国人住民の問題を日本語能力不足の問題として捉え、地域住民の活動として学校型の日本語教育を行うことが、本当に外国人住民を彼ら本来の姿として尊重し、彼らが自分らしく生きていく支援となるだろうかという、地域における日本語教育の理念の問い直しである。(中略)日本語学習意欲の高い「良い学習者」を支援するための日本語教育ではなく、「生活者」として日本社会に暮らす全ての人々を社会の一員として受け入れ、彼らの社会参加を日本語の側から支えることが地域日本語教育に求められている。○十分な日本語能力を持たない外国人は社会生活のさまざまな面で制約を受け、本来守られるべき権利や平等に与えられるべき機会が確保されない状況にある。(中略)個人の努力では乗り越えがたい構造的な問題を放置したままでは、互いの文化を認め合い対等な関係を築こうとする姿勢を個人に求めても、真の対等な関係にはなり得ない。日本語習得の困難性を考えると、外国人住民の日本語能力の向上を図ることだけでは問題は解決しない。○共通言語としての日本語の役割を考える必要がある。(中略)多文化共生を目指した日本語教育は、地域住民の人間関係構築と地域の問題の共有および解決のための対話に不可欠な「多文化共生コミュニケーション能力」の育成を目的とする。○さまざまな立場の地域住民がお互いの問題を共有するためには、「当事者としての問題と向き合う経験」を通して、自分の意識の外にあった問題に気づき、何をするべきかを考える必要がある。住民活動としての地域日本語教育を日本人・外国人が当事者として向き合う対話の場として位置づけ、行政が社会システムを整備していくことが考えられるのではないか。○日本語の文法や語彙などの関する知識的学習活動からは、相互に対等な関係での対話は生まれにくい。地域日本語教育は、地域社会の構成員である人々の人生を視野に入れた、生涯学習支援システムとして考えなければならない。(次号に続く)◆外国人散在地域における 「特別の教育課程」による日本語指導(福島大学地域創造 第26巻 2015年2月)平成25年5月1日現在、「特別の教育課程」により日本語指導を受けている児童生徒は、全国で20%に満たない。香川県での導入もまだと聞く。同じ外国人散在地域である本県でも参考となると考え、以下紹介する。○2014年1月14 日付で学校教育法施行規則の一部を改正する省令を公布,4月1日より義務教育諸学校において日本語指導 の「特別の教育課程」の編成・実施が認められることとなった。これにより,学校における日本語指導が教 育課程に正式に位置づけられ,学校教育の一環として 行う日本語指導の全国的な質の担保にむけて第一歩を踏み出した。○今回省令の中で,日本語指導の対象となるものは,「日本語に通じない児童又は生徒のうち,当該児童又は生徒の日本語を理解し,使用する能力に応じた特別の指導を行う必要があるもの」としている。このことは,すなわち,児童生徒が外国人であろうが,日本人であろうが,その国籍は問うておらず,児童生徒が学校生活を送るとともに学習活動に取り組むために必要な日本語能力に着目していることを示している。○「特別の教育課程」による日本語指導が記されている条文は,学 校教育法施行規則第五十六条の二,三に記されているわけだが,その前の条文第五十六条には,いわゆる 不登校児童に対して,「その実態に配慮した特別の教育課程を編成して教育を実施」と記されている。第五十六条,第五十六条の二,三,これらに通底しているのは,子どもの実態に対する配慮であり,子どもの 実態に即した教育を行うために,既成のものではない「特別」の教育課程を編成するということである。○ここでいう外国人散在地域とは,いわゆるニ ューカマーと呼ばれる日系南米人が多数居住する外国人集住地域(都市)ではない地域をいう。人口比から みた場合には,人口に占める在留外国人の割合が1% 未満であることを一つの目安とする。2014年6月時点 で,日本には約209万人の在留外国人がおり,日本の 総人口に占める割合は約1.7%である。 また,人口密度の観点からみれば,広範なエリアにわ たって居住し,散在している点が特徴としてあげられる。その結果,外国人の問題は地域の中で顕在化され ず,目に見えない存在となりやすい。1.外国人散在地域における日本語指導の課題○今回「特別の教育課程」において,対象となっているのは,「取り出し指導」である。取り出し指導は、正規の授業ではないので,学習に対する公的な評価がない。もとより,指導の目標や内容,指導時間に関しての明確な基準もない。公的な指導記録も義務づけられていないので,当該児童生徒が進学したり,他校に転入したりしても,引継ぎがなされない。くわえて,外国人散在地域では,教育支援が必要な子どももそれを担う大人も数が少なく散在しており,孤立する傾向にある。対象となる子どもが継続的に在籍する学校は珍しく,日本語教室が常設されている学校も稀である。また,センター校といった中核となる 学校は設置されておらず,仮に設置されていたとしても,そこへの通学は交通の利便性の点などからも困 難である。当然,行政の施策が立てられにくく,教育のための予算措置の優先順位が低い,もしくは,予算 措置がなされないといった状況である。子どもはある日突然学校にやってくる。指導にあたる教員は,子どもの受け入れ経験がなく,その上,現行の教育職員免許法および教育職員免許法施行規則においては日本語指導に関する科目は必修化されておらず,したがって知識ももちあわせていないという場合がほとんどである。また,日本語指導担当という校務分掌は必置ではない。外国人散在地域では,管理職が 学校外から日本語指導ができる支援者を探し出し,応 援を求める場合が多くみられる。しかし,支援者は日本語指導の知識や経験がある,あるいは子どもの母語ができるという力があっても,あくまでも学校という組織の部外者である。このような条件下で,困難な状況にある子どもの存在に気づいた関係者が,子どものために,まったなし,猶予なしの状態で,それぞれに 指導を行い,時限つきの少額の予算の中でやりくりをしてきた。指導時間は子どもの学習状況によって決まるのではない。予算によって決まるのである。予算がなくなれば,日本語指導はそこで打ち切られる。それを回避するために,外部支援者が無償あるいは持ち出しで乗りきるということも,また外国人散在地域では よく見られることである。しかしながら,子どもがいなくなると教育支援の取り組みは終る。それに関する経験と知識は学校にも地域にも蓄積されず,期間をおいて,また新たに子どもがやってきたらゼロから取り組みが始まるということを繰り返してきた。優れた取り組みも共有されず,人知れず埋もれてしまい,教育環境はなかなか整備されずにきた。筆者らは,このような状態に終止符を打 たねばならないとの思いから,教育支援における「「ひと」と「ひと」のつながりを財産としていかしながら, 組織や機関をうごかしていく連携・協働のしくみの構 築が必須である」と考え,研究実践を重ねてきた。2.情 報 周 知学校現場では日本語指導が 必要な子どもという存在そのものを知らないことが多く,その指導体制の構築など望むべくもない。そのような学校現場に,ある日,突然日本語ができない子どもが編入学してくる。現場の混乱ぶりは想像に難くな い。日本語指導の知識も経験もなく,子どもの使う言語能力をもつ人材もいない学校では,手探り状態で指 導を行うしかない。これまで,日本語指導の課題は「外国人の問題」と して,学校で指導する範囲外のことと捉えられてきた。 日本語ができるようになってから学校に編入するよう保護者に伝えるケースも珍しくなかった。これは,学校としては当然の要求のように思えるであろう。日本の公立学校は,日本語を唯一の教育言語とし,それが使えないと,学校教育を受けることは不可能だと考えられてきた。日本人なら日本語ができて当然であり,帰国子女などごく一部の例外を除けば,適応指導としての日本語指導の必要性は想像の範疇を超える。しかし,最近の傾向として,日本国籍を持つ日本語指導が 必要な子どもたちの比率が高くなっている。岩手県でも前述の調査によると,日本語指導が必要な子どもの 53%は日本国籍である。このことは,日本語指導がもはや義務教育の対象範囲外に置かれる外国籍の子ども たちの問題にとどまらなくなったことを示している。しかしながら,学校現場は,英語教育など指導項目の 増加,子どもたち,そして保護者への対応の複雑化などにより,混乱を極めている。その上に,外国人散在 地域のごく少数の子どもたちのために日本語指導も充実させるというのは,かなり難しい。日本語指導の必 要性は,外国人散在地域でも近年認識が広がりつつあるが,その教材,指導法などについては情報が行き届 かないのが現状であり,担い手である教員に対する研修機会はごくわずかである。(次号に続く)http://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/dspace/bitstream/10270/4205/1/18-230.pdf◆「多文化共生」は可能か 教育における挑戦 馬淵仁(編著)勁草書房より ~第5章 共生社会形成をめざす日本語教育の課題(要約 抜粋)~○(地域日本語教育は)地域の隣人(外国人住民)のためにと始めた支援活動であるが、学校的な枠組みの日本語教育によって、同じ地域の住民である日本人と外国人が「教える-教えられる」「支援する-支援される」関係に固定される。外国人住民の問題を日本語能力不足の問題として捉え、地域住民の活動として学校型の日本語教育を行うことが、本当に外国人住民を彼ら本来の姿として尊重し、彼らが自分らしく生きていく支援となるだろうかという、地域における日本語教育の理念の問い直しである。(中略)日本語学習意欲の高い「良い学習者」を支援するための日本語教育ではなく、「生活者」として日本社会に暮らす全ての人々を社会の一員として受け入れ、彼らの社会参加を日本語の側から支えることが地域日本語教育に求められている。○十分な日本語能力を持たない外国人は社会生活のさまざまな面で制約を受け、本来守られるべき権利や平等に与えられるべき機会が確保されない状況にある。(中略)個人の努力では乗り越えがたい構造的な問題を放置したままでは、互いの文化を認め合い対等な関係を築こうとする姿勢を個人に求めても、真の対等な関係にはなり得ない。日本語習得の困難性を考えると、外国人住民の日本語能力の向上を図ることだけでは問題は解決しない。○共通言語としての日本語の役割を考える必要がある。(中略)多文化共生を目指した日本語教育は、地域住民の人間関係構築と地域の問題の共有および解決のための対話に不可欠な「多文化共生コミュニケーション能力」の育成を目的とする。○さまざまな立場の地域住民がお互いの問題を共有するためには、「当事者としての問題と向き合う経験」を通して、自分の意識の外にあった問題に気づき、何をするべきかを考える必要がある。住民活動としての地域日本語教育を日本人・外国人が当事者として向き合う対話の場として位置づけ、行政が社会システムを整備していくことが考えられるのではないか。○日本語の文法や語彙などの関する知識的学習活動からは、相互に対等な関係での対話は生まれにくい。地域日本語教育は、地域社会の構成員である人々の人生を視野に入れた、生涯学習支援システムとして考えなければならない。(次号に続く)◆「多文化共生」は可能か?― 移民社会と異文化間教育 ― 馬渕 仁(大阪女学院大学)※ネットでの概説文をそのまま掲載します。長文で難解な箇所もありますが、お読みくださいね。
「多文化共生」は、昨今、概念的にも実際の場でも、ある意味でインフレ現象を起こすほど社会に浸透しつつあるといえよう。しかし本当の意味で共生が実現しているかとなると、共生概念の曖昧さと相まって、社会構造的な状況はなかなか変わらないままに展開しているというのが実状であろう※。そうした問題意識の下、現代の喫緊の課題のひとつである「移民」※※に焦点を当てて、本年度の特定課題研究は、敢えて「多文化共生は可能か?」という問いをテーマにした。多様なディシプリンを包含する「異文化間教育学会」の研究領域を活かし、他では個々に論じられるような問題について、一定の課題意識をもった異なる分野の研究者によって、それぞれの分野からの分析を可能な限り批判的に行なうことを試みたのである。公開研究会を含み、準備の段階で検討を重ねた「課題」には次のようなものがあった。その第一は、前年の特定課題研究からの宿題でもある「制度化と標準化の相克」の問題である。昨年度の課題研究では、「従来の異文化間教育学会や関連する学会での取り組みに、一部の欧米諸国や韓国などと比べた場合、政策提言の視点が希薄である」こと、また、「多文化共生が喧伝される割には、その理念に基づく実際のカリキュラム開発がほとんどなされていない」という問題点が指摘された。いずれも、これまでの取り組みの課題を指摘したものであろう。しかし一方では、「そうした政策や統一性のあるカリキュラムが標準化という問題を引き起こしてしまい、マイノリティの個々のコンテキストにおける問題を押し隠してしまう」という課題も指摘されたのだった。それは、従来から議論のあった、トップダウンとボトムアップというアプローチ上の問題とも重なる課題である。今回の3名の発題者には、それぞれの分野から、この点への考察を深化させることが期待される。第二の課題は、いわゆるニューカマーとオールドカマーをめぐる異同の問題である。多文化共生が議論される際、1990年代以前から日本に住む、例えば在日コリアンと呼ばれる人々の存在が看過されている、或いは「共生」言説に安易に包摂されているのではないかとの指摘がある。一方、ニューカマーと従来からの在日コリアンとの課題の共通性や活動の連帯性を見出そうとする模索も試みられている。さらに、在日コリアンについて言えば、3世や4世と呼ばれる人たちが増え始め、同時にニューカマーとも呼び得るコリアンも出現しつつある。ニューカマーとオールドカマーの異同を認識するとともに、多様化する外国人居住者を横断する共通性、連続性を見出す可能性やその意義について、試論を提示できればと思う。第三の課題は、マジョリティとマイノリティにおける当事者性の共有についてである。痛みや怒りを経験しないマジョリティが、いわゆる当事者性に鋭敏になれるためにはどうすればよいのであろうか。よく説かれるのは、マイノリティに関わる問題はマイノリティのみの問題ではなく、マジョリティにとっても問題であるということへの覚醒を喚起することである。しかし、それをいわば「お説教」として示しても実効性は乏しい。では、どのようなストラテジーが考えられるのだろうか。例えば、地域社会における制度的なインフラの整備がなされないまま、教える立場と教えられる立場がはっきり分かれてきた日本語教育における試みを振り返ることは、考察への手がかりになり得るかもしれない。時には圧倒的多数者であり、力関係の差異が歴然としているマジョリティへの働きかけは困難な課題であるだけに、問題解決の糸口への模索は続けられなくてはならないと考える。第四は、こうした問題を国内の枠組のみで考えるのではなく、同様の課題にさまざまな試行錯誤を繰り返してきた、日本以外の国々から学ぶべき点はないかという点である。多文化共生の理念的枠組は、英語圏諸国で1970年代以降に議論されてきた多文化主義に拠るところが大きい。カナダ・オーストラリア・アメリカ合衆国などでは、既に、実に多様な取り組みや葛藤の経緯が蓄積されており、その知見なしに国内の事象が議論されるとすれば、それは非常に残念なことである。しかし同時に、それらの国々では、新自由主義的政策の下、例えば多文化教育への予算やスタッフの削減といった、多文化主義政策への逆風が吹いているのも事実である。言い換えると、これまでのどちらかというと差異を重要視するアプローチに代わって、統一性を重んじる政策への転換が進んでいるのである。近年取り上げられることの多くなったシティズンシップ教育は、まさにそうした流れのなかで捉えるべき、顕著な具体例かもしれない。そこでは、多様性をどうマネージメントするのかという視点が強く打ち出される。また、移民かそうでないかということより、経済力があるかないかが重要となり、「文化」の問題から、経済・政治的格差の問題への視点の転換をどう図り得るかが課題となる。確かに、「同じ法律に従って生きる存在として、どうしたらうまくやっていけるのか」が重要な課題であるとの認識は必要であろう。一方、シティズンシップ教育には、規範意識、社会的マナー、公共心などの高揚を指向する傾向が拭えない。社会における合意形成の過程へ、すべての人を充分に参加させることを狙ったシティズンシップ教育が、社会的規範を育てることに、より傾斜してしまう危険性については、どのように対応すべきなのであろうか。包括的アプローチのもと、「市民の育成」といいながら、国籍に市民が結び付けられてしまうと、結局は「国民の育成」と同義になるシティズンシップ教育の世界的な流布に対して、我々なりに応答する必要があろう。このように振り返ってみると、国内における多文化共生の捉え方には、いくつかの傾向があることも見えてくる。そのひとつは、格差や対立、そして葛藤という内実をはらんだ共生への議論が少ないことである。具体的には、外国人とは交流するが、在日コリアンとの交流には消極的であるといった態度などに、それはあらわれてくる。結局、共生とは「仲良くしましょう」の言い換えに止まってしまう現実である。一方、経済界や政策立案者の一部には、生産者としても消費者としても、社会に充分参加できないマイノリティの存在は国家や企業に益しない、という観点からの多文化共生論も盛んである。後者のアプローチに拠る場合は、そこで言われる「社会参加」とは何のための、だれのための社会参加なのかという点に充分に注意しなくてはならない。異文化間教育学会でも、「多文化共生」を論じるに際し、これらの点について掘り下げた議論を展開することは焦眉の課題であろう。 先述したように、一部の地域や関係する人たちの間を除き、圧倒的多数のマジョリティの間では、こうした議論すらほとんどなされていないのが実情であろう。そのような中で、研究者の個々の取り組みをどのようにつなげ、共有していけるのかは、これからの大きな課題だと思われる。自らの立ち位置をいかにして自省的に問い直せるか、それに教育がどのように関われるかという大きな課題に、具体性のある提言で応答していくことが求められる。今回の特定課題研究が、そうした試みへの一つの契機となることを願うものである。※ 「多文化共生をどう捉えるか」をまず定義してから、議論をすすめることが当然考えられるが、ここでは敢えてそうしたアプローチは採らない。その多義性を検討することが、本課題研究の目的の一つでもあり、また、そうした検討の結果が「多文化共生」の内実を明確化することにつながると考えるからである。※※ 経済的理由により永住する外国人移住者か或いはそうではない人々なのか、さらに、ニューカマーとオールドカマーの異同など、「移民」の捉え方に関してもさまざまな議論が考えられるが、本課題研究では「ある国から他の国へ移り住む者」の意味で暫定的に広く捉えていることを断っておきたい。
◆「多文化共生」を問い直す グローバル化時代の可能性と限界(日本経済評論社発行)編著 権五定・斉藤文彦
・「共生」の用語は、もともと生物学の用語 異なる生命の共存 symbiosis(シンビオシス)※イソギンチャクとクマノミ。グロバリゼーション ヒト、モノ、カネ、情報が国境を越えて移動する中、社会学に移入した。特にヒトの移動 移民問題 国民国家が揺さぶられる。
・一つの国家の中に、いろいろな民族が存在し、多文化化(multi-culturalism)。国家という境界に文化の境界があわなくなった。
・日本語の「共生」の訳語:symbiosis や co-existence 、conviviality、living together
・ 仏教用語の「共生」(ぐしょう)縁起:1つの命は他の多くの命に支えられている。浄土宗 「ともいき」
運動「共生極楽仏道:ともに極楽に生じ仏道を成さん」
・阪神淡路大震災:被災した8万人の外国人への支援の在り方が問われた。多文化共生センターの発足
・黒川紀章:対立関係を解決するためには、二項対立的な関係ではなく、対立を含んだまま共生する理論の必要性。
・将来の仏教が語るべき共生の思想の視座と方向性:「きょうせい」(symbiosis)という異なった集団と集団の間の共生の視点と、「ともいき」(conviviality)という個人と個人あるいは個人と集団の共生の視点の間に、避けがたく存在する対立、関係、緊張関係の視点を、一方で見失うことのない共生観」
・近代思想と共生の在り方 共生を国家関係ではなく、文化と文化の関係で理解
・「共生」概念の「生」の概念を取り上げ、権力構造のもと、意味ある「生」をもつためには主体性の確保が不可欠、主体性確保のための意識の在り方、意識的取り組みの必要性
・西ドイツ時代の対外文化政策の問題点:「いつかは帰国する外国人」
・韓国の多文化教育:韓国のアイデンティティ強化の発想
・アメリカの多文化教育:9.11以降の逆行 社会としての制度的な改革の実践の必要性
・色濃く横たわる先進国と途上国の格差問題 貧困と環境問題、先進は途上国を踏み台にして現在の豊かさを手に入れた。倫理的にも先進国の正義への要請
・長期的には、物質消費に依存しないライフスタイルとそのような生活に幸せを感じる新たな価値観の創造が欠かせない。
・なぜ、異なる文化や民族が互いに受け入れあるべきなのか。この問いは、平和概念と緊密に絡まっており、なぜ、共生しなければならないのかと同様に、なぜ、戦争や物理的な暴力はさけなければならないのかとの問いが存在する。いかなる悪が生み出されたとしても、それは必要悪であり、それ以上の善の創出がみこまれるのであれば、その悪、戦争もまた肯定されるという理屈で一蹴される。
・フランスの哲学者フーコー:近代の支配構造としての統治性の概念:人々は、国家の発展のために、生産性を高める道具と化し、支配される側がその支配の仕組みを受け入れる。人々は、画一化され、個々の特殊性が抽象的な普遍性へと移し替えられる。全体主義、ナチズム、ホロコーストは、生産性の向上の論理が、生産に役に立たない人々に対する抑圧をもたらす。支配される側がその支配の仕組みを受け入れれば、国家は安定するが、思いもよらない暴走の危険性をもつ。異なる価値観や生活習慣を背景とする多文化の存在それ自体が、画一化した社会による暴走を防ぐ可能性をもっている。多文化間の共生は、社会の暴走やホロコーストのような悪を抑圧するという意味で正義なのである。多文化共生は余裕のある人々による寛容さを基盤としたリベラルな言説などではなく、社会における公共性を担保するための厳格な政治的欲求であり、余裕の有無を問わない社会全体を貫徹すべき規範として位置づける必要がある。
・「多文化共生でいう「文化間の差異」について、マジョリティがすでにイメージを決めており、マジョリティによりイメージされた「異文化」を体現することをマイノリティが要求されている。」という。
・「共生」は、共に生きることを意味するが、問題はその「生」がどのような生の様式を意味しているかが問題である。市民としての「生」(マジョリティ側の生)が労働者としての「生」(マイノリティ側の生、文化の商品化を通した市場経済への参加という形のみでしか認められない生)を押し付けている。
・「共生」における「生」もまたすでに「善き生」(※マジョリティ側のいう「生」)として語り手によって一方的に語られ固定化されるものであるならば、それは「共生」でなく、「強制された生」である。本来の意味での「共生」は、一元化された「自己」と「他者」の解体という方法以外に達成することは不可能であろう。すなわち、恵まれた人々が市民としての生を享受し、他方で虐げられた人々が労働者としての生(文化の商品化を通した市場経済への参加という形のみでしか認められない生)しか生きることができない現状は倫理的にも望ましくない。それに代わってマジョリティ側の生とマイノリティ側の生との両方をすべての人々が体現するようにならない限り、「自己」は「他者」の「善き生」を定義し続けてしまうのである。そして、それは結局のところ「自己」による「他者」の支配を正当化することに他ならない。
・南米日系人:ガラスコップのシステム:経済危機以降の南米日系人の日本での生活や就労は、彼ら、彼女らを雇用する業務請負業者に依存した脆弱な生活をガラスコップに入れられた状態であると比喩に使われた。経済危機以降は、その影響を受け失業者や生活困窮者が増加する中で、脆くも成り立たなくなった。日本に残ることを選択した南米日系人が自分たちの環境を少しでも良くしようとする新たな動きが生まれたことは、今後の日本における「多文化共生」を考えるうえで、重要なターニングポイントになると注視している。
・マイノリティに対する政策だけでなく、当該社会のマジョリティからの支援や共感を得ることができる政策とそのための教育の重要性。その際、多様性の拡大(人種や民族だけでなく、ジェンダーや性的指向、宗教などさまざまな多様性を考慮に入れることで、多様性の意味が拡大する。そのことで、マイノリティからの異議申し立ての力を減じるという議論がある。)を危惧したり、選択的移民政策を全否定するような理想主義的な理念に偏るのではなく、マジョリティが抱く脅威感や負担への懸念を可能な限り取り除いた具体的政策の提示が求められる。
・実際に当該社会のマイノリティと個人的な関係を持つ機会を提供し、実際の個々人による交流の体験や当該社会でのマイノリティの歴史を重視した教育、平等と共に衡平を求める教育を提供する。
・共生をめぐる考察の1つとして、先進国と途上国の間に横たわる格差のうち、貧困と環境という2つの問題を取り上げる。先進国の発展は、途上国の資源を利用してきたことによってもたらされてきた。一方、途上国は、先進国が多大なエネルギーや物質を消費することによって生じた各種のしわ寄せを負わされている。
貧困にせよ、気候変動にせよ、途上国の自己責任を超えたところで問題は発生しているにもかかわらず、途上国の人々は負の帰結を負わされている。この非対称性は重要な倫理の問題を提起する。それゆえ、現状を是正し、より公平な姿に戻すという正義の要請がそこから生まれてくる。
・貧困にしても気候変動にしても、地球規模の問題を解決するためには、先進国の人々にかなりの負担が強いられ、今の快適な生活を手放すことが求められる。そのような犠牲の先に見える新しいライフスタイルが今より魅力的に見えなければ、今の今の生き方より望ましい生き方への転換は困難であろう。それは、地球規模の物質循環に見合った責任ある消費を体現するようなライフスタイルであろう。あり余るモノに囲まれるよりは、創造 性など人間本来の生き方を発揮するために本当に必要な財に囲まれた生活であろう。そこで望まれる社会は男女平等等を含む社会的公平が確保された社会である。人間の尊厳が守られ、災害などの非常時にも社会的弱者が泣き寝入りを強いられることがない、すべての生命に優しい社会であろう。そのような社会では、政治的に無力な者こそ強い保護が与えられるべきことを要請する人権理念が要請される。
◆外国人児童生徒の教育をめぐる政策論の動向と展開 斉藤泰雄(国立教育政策研究所国際研究・協力部総括研究官)平成24年3月○約2年前の論文ではあるが、外国人児童生徒の教育をめぐる諸情勢、国・自治体の政策の動きが簡潔にまとめられている。中でも、外国人住民の日本での滞在の長期化、定住化傾向が強まっており、子どもの就学機会を確保するため、公立学校の受入れ体制を整備するとともに、いわゆる外国人学校、とりわけブラジル人学校の運営支援等を行うことで、日系人子弟へのもう一つの選択肢となっていること、さらにリーマン・ショックによる景気後退が子どもたちへの教育に及ぼす影響などがわかりやすく記述されている。http://www.nier.go.jp/kankou_kiyou/kiyou141-018.pdf
◆「移動する子どもたちと日本語教育」早稲田大学大学院日本語教育科教授 川上郁雄※上記書籍に、平成25年1月20日(日)東広島市市民文化センターでの年少者日本語教育指導者のための出前講演会での川上先生の講演要旨を加筆しました。1.「移動する時代」と子どもたち国際移民の時代:大量の大人たちが自分の意思で移動するのに対し、大量の子どもたちは、大人たちによって「移動させられる」時代・ドイツ ドレスデン市のインターナショナル校の事例教室の壁に、子どもたちがこの学校に編入するまでの数カ国の移動の軌跡を表で貼付子どもたち同士がそれぞれの背景を知ることで、自分の移動の生活を特別視しない。子どもが抱えさせられる課題・複数言語環境で成長する子どもことばの教育がなぜ必要なのか。→複数言語で他者とつながっている複数言語で向き合う自己の確立2.指導の前提(1)子どものことばの生活を想像する。→言語生活を子どもの目線で考える。(2)子どもの成長と発達を考える。→子どもはさまざまなストレスや思いを抱えている。(3)子どもの心を支える→ 教育はそんな子どもの心を支えるもの 3.ことばの力はどのように見えるかその背景に何があると思いますか。「黙っている子」→日本語が話せない。サイレントチルドレン(沈黙期間 他の子を観察、わかるまで黙っている。)自信がない「人のまねをする子」→自分の意見に自信がない。わからないまままねをする。「自分でことばを作る子 例~じゃない」→じゃない は否定形 NOの意味「1語文の子」→日本語学習初期の段階 「はい」というがいろいろな意味のはいがある。「もともと学力が低いように見える子」→個の力、その子の問題とみなしがち「ほとんどの話は理解できるが、日本の文化に関する知識が不足している子」→日本の何年のいながら、日本の昔話での文化的な事柄がわからない子どもたちのことばの力の実状は極めて多様である。子どもは、人とのやりとりの中で(相互作用的)、その子の背景や発達段階などに応じ変化(動態的)する。これらは、JSLバンドスケールのどれかのレベルと合うかを検討できる。「※ことばの力:他者とやりとりする力、学び考える力、思考を深める力を得ることことばの力を育成するために重要なことは?①子どもたちに日本語を教える方法②目の前の課題をやりとげるための支援③子どもたちの成長・発達の過程に継続的に、かつ長期的に寄り添って日本語を教える。④教授法、教材開発それだけでは十分ではない。1.子どもたちがいかに自律的に、かつ主体的にことばを学ぶ力を獲得していけるか。生きていく主体である子ども自身が自らの学びのスタイルを見つけ、自律的に、かつ主体的に学んでいくように、支援者がいかに支援するか。一人ひとりの子どもに寄り添って共に考えていくにはどのようにしたらいいのか。」4.「日本語指導が必要な児童生徒」とは誰か・誰が何をもって判断するのか。教委に報告する日本語指導が必要な児童生徒の判断は、学校が決める。予算の関係で、制約されることもある。・文科省の新たな定義(H18.11.6)①日本語で日常生活が十分できない者(JSLバンドスケール レベル1~2に相当)②日常会話ができても、学年相当の学習言語が不足し学習活動への参加に支障が生じる者で、日本語指導が必要な者(JSLバンドスケール レベル3~4に相当)しかし、JSLバンドスケール レベル5~6でも支援が必要である。 ・2言語相互依存の仮設(J.カミング) 2重の氷山 2言語が上のしきいを越えれば「加算的バイリンガル」(母語に加えて社会的に有用な言語が加わる)になる。第一言語による認知的、社会文化的背景が日本語の力に影響を与える。JSLバンドスケールは、レベルを決定することに意味はない。複数の支援者の見立てが大事「※JSLバンドスケールに見る「ことばの力の捉え方」子どもの日本語の力の実態を発達段階的に把握するものさし(scales)の束(band)年齢集団を「小学校低学年」「小学校中高年」「中学・高校」の3つに分け、それぞれの集団の4技能(聞く、話す、読む、書く)ごとに、初歩レベルの1から日本語を高度に使用できるレベルの7あるいは8の段階に設定している。日本語を学ぶ子どもの学習の様子や先生とのやりとり、クラス活動や遊びの様子を観察し、そこで見られる言語使用の特徴がどのレベルの特徴と合うのかを検討する。取り出し指導の子ども:レベル1からレベル6まである。ひとりの子どもでも4技能が同じレベルにはなく、アンバランスな状態にある。子ども一人ひとりによって、来日年齢、滞在期間、出身国での教育、家庭内の言語生活などさまざまな異なる事情がある。バンドスケールは、子どもたちのことばの力を把握しつつ、そのことばの力を伸長するために、どのような日本語教育を行うかを検討することが目的なのである。」・日常会話能力(生活場面)1~2年で獲得文脈が見える。話題がわかる。相手が聞いてくれる。知っている語彙が少ない。・学習言語能力(学習場面)5~7年で獲得文脈が見えない。馴染みのない話題。抽象度が高くなる。知らない語彙が多い。5.「日本語指導」から「ことばに留意した教育」の創造へ・三重県鈴鹿市の試み人口20万人 小中学校 40校 外国にルーツをもつ児童生徒 700名(全体の1割)5年間JSLバンドスケールを使って、実践研修会(教師間での学習)・共有(教師間で個々の児童生徒の状況共有)・連携(国際学級と在籍クラス)6.言語活動に必要な観点は何か・個別化:子どもを主人公にする。個人差(言語能力、学習スタイル、学習ストラテジー、興味など)に配慮した指導一人ひとりの発達段階に配慮した指導・文脈化:ことばは文脈の中で意味が生まれ、談話の中でメッセージを伝える。学習者は場面や状況に応じてことばを理解し、流動する文脈の中で使用してはじめてことばを習得する。決して文型練習で得られるものではなく、意味のある文脈をいかに作れるかがポイント・統合化:子どもの言語発達では、子どもにとって「意味するもの」と「意味されるもの」を結びつける象徴機能の形成が言語発達の中核学習者の言いたいことや内容をことばにする(統合化する)とき、言語習得が進む。※子どもがペットの写真を持ってきて、「これ 私のペット」と言った場合、正に個別化文脈化統合化支援者のスキャフォールディング(足場かけ)が重要・漢字にルビ打ち ・やさしい表現 ・音読 ・板書 ・視覚的活動教材の提供 ・友達同士一緒に考える ・わかりやすいプリントを用意する など7.日本語指導に必要な観点1)こころを支える指導2)声が届く体験→自分のことばを聞いてくれる人がいる必要な視点①成長・発達の視点②ことばの力をみる視点③どのような「ことばの力」を育成するのかという視点第二言語としての日本語の特徴・動態性:常に日本語の力は変化している。・非均質性:場面や状況に応じて生起する日本語の力は同じではない。・相互作用性:日本語が使用される目的や相手との関係性によって日本語の力は異なっていく。JSLカリキュラムと教科指導JSLカリキュラムは、考え方を示したもの日本語の習得を通して学校での学習活動に参加するための力を育成するもの知的で楽しい活動これはなんだろう、これとこれはどう違うのか、なぜこうなるのか、考えてみよう 調べてみよう8.「移動する子ども」とは①空間的に移動する子ども②言語間を移動する子ども③言語教育カテゴリー(第二言語教育、外国語教育、継承語教育、母語教育など)の間を移動する子ども
◆発達障害の理解と支援のあり方 東京学芸大学 教育実践研究センター 大伴 潔第13回外国人児童生徒教育フォーラム(2012年)「JSL児童生徒の学習上のつまずきと支援」抜粋要約・発達障害の定義:生まれつき脳の働きが定型発達児とは異なり、独特の行動特性を持っている状態自閉症、LD(学習障害)、ADHD(注意欠陥・多動性障害)、アスペルガー症候群などで、しつけや環境が原因ではない。行政上の発達障害と学術上の発達障害は一致しない。前者は、知的障害や脳性マヒは含まれない。・自閉症:明確な定義はない。現在、合意形成されている3つの特徴①対人関係における困難:相手の気持ちを察するといった共感的な関係の困難、視線を合わせることが難しいなど(視線をしっかり向けてくる子どももいるので、絶対的なものとして判断しないこと。)②言葉の発達の遅れや独特の表現:質問の言葉をオーム返しする、パターン化された言葉で会話を始めるなど③限定された興味や活動の範囲:同じ遊びや物(衣類等)、パターン的行動(活動の手順等)、特定の感覚刺激などへのこだわり、変化に対応しにくい。・自閉症スペクトラム:知的障害を伴い話言葉のない自閉症~高機能自閉症(知的発達の遅れない)・アスペルガー症候群(知的発達の遅れない・言葉の発達の遅れない)までの連続体(境界がない)・アスペルガー症候群の子どもの特徴①人の気持ちや「場の雰囲気」「暗黙のルール」が読みとれない。②ことばを字義どおりに受け取ってしまう。③妙に堅いことばを使ったり、一方的に話したりする。④こだわりが強かったり、感覚が過敏であったりする。⑤得意と不得意の差が大きい。・注意欠陥・多動性障害(ADHD)①年齢あるいは発達に不釣り合いな注意力及び又は衝動性、多動性を特徴とする行動の障害で、社会的な活動や学業の機能に支障をきたすもの。②7歳以前に現れ、その状態が継続し、中枢神経系に何らかの要因による機能不全があると推定される。・学習障害(LD)①基本的には、知的発達に遅れはないものの、読む・書く・計算するなどの能力のうち、特定のものの習得と使用に著しい困難を示す状態を指す。②中枢神経系の何らかの機能障害が原因と推定されるが、視覚・聴覚障害などの器質的な障害や環境的要因が直接の原因となるものではない。
◆外国につながる子どもの学力保障 佐藤郡衛(東京外大特任研究員・東京学芸大学国際教育センター教授)外国につながる子どもには、学力を「学校の知識習得度」という狭義に捉えるのではなく、地域やボランティアが行っている学習支援の意味を捉え直す必要がある。○地域における多様な回路による学習支援①興味関心を引き出し、学習意欲を喚起させるような支援②学習能力をつけるための支援③言語能力の育成を目指した支援④他者との関わりを通して学習を展開し、「学力」の向上につなげていくような支援⑤現在の自分を再構成できるようにすることで「学力」の向上につなげていくような支援○多様な回路による学習支援は、学校だけでなく、地域の多様な支援によって成立→協働・関係機関・組織が固有の役割を担うことで、生徒の総体としての「学力」を向上○行政、学校、NPOの実質的な連携 「公的コミュニケーションの場の設定」と「対等な規範形成」の必要性・子どもの情報の共有化(子どもの個別ファイルづくり)○こうした試みは、「教育コミュニティ」と呼んでいる。学校と地域が協働して子どもの発達や教育を考え、具体的な活動を展開していく仕組みや運動である。※子どもたちは、進路の選択肢が狭く、将来の方向性を見出せないことが多い。子どもたちにとって、学力とは、社会関係を豊かにし、自分の居場所を見いだし、さらに自分を表現できる方法や場を見いだすこと、それが自律的な力につながる。この自律的な力こそが、「学力」にほかならないと佐藤郡衛教授は言う。http://www.tufs.ac.jp/blog/ts/g/cemmer/No09%2042-52.pdf
◆二つの言語と文化の中で育つ子ども達への支援 富山国際大学教授 福島美枝子(2014.3)福島教授は、2014年4月から外国籍児童生徒などに対し「特別な教育課程」が提供される状況下において、受け入れる日本人側が二つの言語と文化の中で育つ子ども達の言語発達をより良く理解し、日本語教育や教科教育を超えて日本人社会全体が少数言語の人々への関心や生産的な考え方を発展させていく必要があるという。※論文中の個人的メモカミンズ博士の「発達上の二言語相互依存の仮設」でいうビックス(生活言語)とカルプ(学習言語)のうち、カルプは場面支援度と認知力必要度を軸にして、言語活動を4つの領域に分けて考えられている。領域Aは買い物をする場面での言語活動など、場面の助けがあり高度の認知度を必要としない活動、領域Bは理科の実験とか視覚教材活用の教科授業など、場面の助けはあるが認知力の必要度が高い活動、領域Cは教師の板書を写すとか買い物リストを作るなど、場面の助けがないが認知力の必要度が低い活動、領域Dは教科学習の多くがこの領域に入り(本を読む、レポートを書く、口頭発表をするなど)、場面の助けがなく認知力の必要度が高い活動である。○「発達上の二言語相互依存の仮設」(母語の発達は第二言語の発達を、第二言語の発達は母語の発達を促すという相互作用が認められる。):入国する前に母語でのカルプをより身につけている(3~4年生ぐらい)方が、第二言語のカルプの伸びも良い。○「日本語が身についていない子ども」としてでなく、子どもがすでに持っている知識や能力を知る必要がある。・・・・教育実践面で子どもたちのために必要なのは、ひとりひとりの背景を知り、定期的に言語面と教科学習面での伸びを見ながら今後の目標を考案すること。・・・子どもたちへの支援は、言語発達や教科学習面だけでなく、もっと情意的な面での成長や人々と関わって生きていく面にも注目しなければならない。http://www.tuins.ac.jp/library/pdf/2014kodomo-PDF/2014-13fukushima.pdf◆「多文化共生社会に向けて」明治大学国際日本学部教授 山脇 啓造 氏「外国人労働者か移民か」「2014年4月4日に、建設分野における外国人材の活用に係る緊急措置を検討する閣僚会議(第2回)が開かれ、「当面の一時的な建設需要の増大への緊急かつ時限的措置」(2015~2020年)として、「即戦力となり得る外国人材の活用促進」を図ることを決定しました。(中略)安倍首相は外国人材を積極的に活用するが移民政策はとらないことを強調しました。外国人労働者は受け入れるが、移民政策はとらないとは、外国人労働者を期限付きで受け入れるが、一定期間が過ぎたら必ず帰国させることを指しているようです。労働力はほしいが、受入れにともなう社会的コストはできるだけ避けたいということでしょうか。移民政策とは、外国人の出入国および在留全般に関する政策を指す場合と外国人を定住者(移民)として受け入れる政策を指す場合があります。政府が使っているのは後者のようですが、その定義に従っても、実は、政府はすでに移民政策をとっています。中国帰国者やインドシナ難民、日系人といった人たちは定住を前提に受け入れてきましたし、最近では、高度人材や留学生も同様です。特に、高度人材については、ポイント制度を採用して、永住資格の取得を優遇するなど、積極的にこうした外国人の定住促進策をとっています。従って、安倍首相を始めとして、政府関係者が一様に移民政策をとらないことを強調するのは不思議なことと言えます。 また、本来、中長期的な観点に立った外国人受入れのビジョンに基づき、外国人労働者の活用を検討すべきなのに、オリンピックの建設ニーズに応える形で、いわば緊急対策として、ビジョンなきままに外国人労働者の受入れに踏み出すことは、望ましくありません。欧米諸国では、期限を区切って受け入れたはずの外国人労働者の定住化が進んでいった例が少なくありませんが、日本はそうならないでしょうか。 」(山脇) http://www.jiam.jp/melmaga/kyosei/newcontents86.html
◆「なぜ母語教育は必要か」【野津隆志】兵庫県立大学経済学部教授我が国において、外国にルーツをもつ子どもたちの母語教育についての議論が十分なされていない現状がある中、要約的に整理した論文を紹介する。6つの論拠を示しており、詳細は下記URLでご確認ください。(1)教科学習と日本語能力の形成のための母語(2)アイデンティティ形成のための母語(3)家族コミュニケーションのための母語(4)母語権利論からの必要性(5)母語資源論からの必要性(6)帰国・往来のための母語教育http://education-motherlanguage.weebly.com/2759735486259453294612398307
◆異文化体験の影響に対する心理力動的接近の可能性
子どもの異文化体験に関する研究は、成人に比べ少ない。異国で生活する意味空間の理解が十分できない子どもは、異文化への適応能力が成人より高いと一般的にはされているが、親がストレスにどの程度対処でき、子どもの保護的役割をどの程度担えるかという要因に大きく左右されるという研究もあり、また、発達段階のどの時期に異文化接触するかによっても大きく影響され、長期的な観点からの研究が必要であるとの意見もある。http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/niikiyo/KJ00004253994.pdf
◆小学校での教科学習のための日本語指導のあり方(東京外国語大学 横田淳子)抜粋生活日本語と学習日本語一般に生活日本語は、日常生活で使われる言葉、それも主にインフォーマルな環境で話される言葉を指しているようだ。それに対して学習日本語は教科者、宿題、テストなどで書かれている言葉を中心にして、さらに教師が授業で使うフォーマルな言葉も含めて指している。各教科に特有な専門用語が学習日本語として特に取り上げられることも多いが、専門用語は教科学習の中で概念と共に学ぶもの・・生活日本語は音声言語が中心で、基本的に文字を介さないのに対し、学習日本語は書かれた言葉が中心で、その習得にはひらがな、カタカナ、漢字という文字の学習が欠かせない・(中略)・生活日本語はコミュニケーションの内容が生活に関する情報であり、場面からの助けが期待できるが、学習日本語は場面や文脈から補助を求めにくく、言語そのものから意味を把握しなければならない・・言語を理解し、組み立てる文法力が必要になってくる。・・教科学習につながる日本語指導の方法として、教科学習を視野に入れ、初期の段階から文字を教え、体系的に文型を指導し、文字を通して文を確認すること・・文型を指導するといっても、それは文法を明示的に説明して教えることではない。指導する側が指導項目としての文型をしっかり把握し、その文型が使われる状況を作り、文例をたくさん示すことによって、学習者が自己の中に文法を内在化させるのを助ける。・・初期の日本語指導の次の段階として・・一つの支援の方法は、・・理解しやすい日本語に置き換えて、教科の内容を理解させ、・・日本語を・・習得させるやり方である。・・教科書の複文をわかりやすい単純な文に置き換える・・もう一つの支援の方法は、教科学習で各教科共通に出てくる文型を指導し、外国人児童が理解できる日本語を少しでも増やそうというものである。・・子供のための日本語教育では日本語力を養成するためだけに長い時間をつかうことはできない。・・初期の生活日本語の段階が終わったところで、中級・上級という段階を踏まえず、一気に教科学習で必要な日本語を選択的に指導する必要がある。・・・・・・・・・・・http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/20971/1/jlc030005.pdf#search='%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%A7%E3%81%AE%E6%95%99%E7%A7%91%E5%AD%A6%E7%BF%92%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E6%8C%87%E5%B0%8E%E3%81%AE%E3%81%82%E3%82%8A%E6%96%B9'◆入門期外国人児童を対象とした文型指導の意義と可能性(広島大学 妹尾 知昭)http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/35895/20141016210646893124/JEEC_1_93.pdf
◆外国人の子どもにみる三重の剥奪状態(お茶の水女子大学教授 宮島 喬氏)2013年7月に掲載された論文である。氏は、フランス社会学研究者として出発し、ヨーロッパ諸国におけるナショナル・マイノリティと移民に関する研究を進めている。そして移民問題については、フランスにおける移民の第二世代の教育、就労、社会参加に焦点をあて、また、その知見から日本の移民問題についても発言している。(以下、筆者要約)貧困から変換されていく剥奪には、「時間的貧困」、「関係性の貧困」、「機会の貧困」という「三重の剥奪」がある。外国人労働者は日本的雇用では低賃金のほか賞与や福利厚生から排除され、この大きな格差を縮減するため就業時間を増やす結果、子どもとの時間を持てない「生活時間の貧困」を背負う。さらにこれらは親子の精神的つながりを希薄にし「関係性の貧困」が結果する。また、高校への進学、その修了のいかんは貧困か否かの分かれ道といわれ、これをなんとか通過しても、そこから先の人生を切り開いていく上で、身近な、社会的ひろがりのある人間関係、社会的適応のノウハウ、利用可能な制度の知識など社会関係資本が貧しく、そして外国人ゆえに差別されてきた経験から、積極的に行動できないという「機会の貧困」が生じる。・・・(貧困の再生産、親以上に不安定な就労の道しか進めないといった、重く苦しい現状がつづられている。)http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/657/657-02.pdf
◆日本労働研究雑誌 掲載論文 要約「移民の子どもの教育の現状と課題」ハヤシザキ カズヒコ(福岡教育大学准教授)本稿は、移民の子どもの教育支援の現状と課題をあきらかにすることを目的とする。ここではとくに学校教育に焦点をおき、移民の子どもの人口、移民の学力・進学の状況、学校における支援の現状と課題についてのべた。外国人の子どもの人口は『入管統計』、『学校基本調査』、文部科学省の「日本語指導が必要な児童生徒の受け入れ状況」調査などにしめされている。他方、国勢調査の分析によると国際結婚家庭の子どもは外国籍の子どもの1.5倍いると予測される。近年、国際結婚家庭の子どものよびよせなどにより重国籍の子どもがふえている現状から、支援対象の数を正確に把握することは不可欠である。移民の子どもの学力・進学の状況も全国的データは存在しない。自治体調査によると外国人児童生徒の高校進学率は80%台と日本児童生徒との格差は縮小している。また国勢調査の通学率の分析によると韓国・朝鮮籍は日本人と僅差となり、中国籍がつづく。ブラジル、ベトナム、フィリピン籍は苦戦しているが、ブラジル国籍は改善のきざしがみえる。教育支援の現状は、日本語指導により適応がはかられているものの、内実にはかなり困難がある。第一に支援にかかわるスタッフのスキルのひくさ、第二に教材リソースや教科の難解さ、第三に移民の子ども自身の被教育経験や家庭の問題である。施策はあっても少予算のため抜本的な対策とはなりえていない。政府が総合的な移民政策をうつことが不可欠であり、このままでは困難はつづくと予想される。http://www.jil.go.jp/institute/zassi/index.html
◆多言語と教育 吉富志津代氏(大阪大学グローバルコラボレーションセンター特任准教授・NPO法人多言語センターFACIL 理事長)毎日新聞2016.1.13 (以下、要約)吉富特任准教授は「教育現場に二つ以上の言語環境を」と提唱している。国際結婚で生まれた子や海外から帰国した児童生徒、あるいは外国から来た子どもなど、二つ以上の言語環境で育つ子どもは増えています。しかし、学校は「日本人のための教育の場」が前提です。「希望があれば、外国人の子も受け入れる」という姿勢にとどまり、一人一人の言語と人格が尊重されていない。「日本における教育は日本語で」という思い込みがある。世界人権宣言=1=で保障されている「子どもがどこにいても教育を受ける権利」という視点が欠落しています。日本語能力だけの問題ではなく、母語も日本語も不十分なために、言語の形成において霧がかかったような空白状態に陥る子がいます。日常会話レベルの日本語と学習言語としての日本語は、まったく別なのです。学習・思考の根幹となる第一言語(強い言語)習得という課題が認識されていません。大人になって母語と日本語の構造の違いに気づくケースがあります。外国につながる子どもたちに注目することは、多くの社会課題を包み込むことでもあります。日本社会で優先順位が低く、放置されてきた存在だから。社会の周縁に置かれたマイノリティーが生き生きと暮らせることは、社会の弱い部分を補うことにつながり、みんなが豊かに暮らせる社会になります。 保護者、支援団体、地域社会、学校教育、国レベルの教育制度……。それぞれの段階で今できることから取り組むことが大切です。(詳しくは、下記のURLから)http://mainichi.jp/articles/20160113/ddn/004/070/050000c