新着3 論文の概説(多文化共生を問い直す)

◆「多文化共生」を問い直す グローバル化時代の可能性と限界(日本経済評論社発行)編著 権五定・斉藤文彦
・「共生」の用語は、もともと生物学の用語 異なる生命の共存 symbiosis(シンビオシス)※イソギンチャクとクマノミ。グロバリゼーション ヒト、モノ、カネ、情報が国境を越えて移動する中、社会学に移入した。特にヒトの移動 移民問題 国民国家が揺さぶられる。
・一つの国家の中に、いろいろな民族が存在し、多文化化(multi-culturalism)。国家という境界に文化の境界があわなくなった。
・日本語の「共生」の訳語:symbiosis や co-existence 、conviviality、living together
・ 仏教用語の「共生」(ぐしょう)縁起:1つの命は他の多くの命に支えられている。浄土宗 「ともいき」
運動「共生極楽仏道:ともに極楽に生じ仏道を成さん」
・阪神淡路大震災:被災した8万人の外国人への支援の在り方が問われた。多文化共生センターの発足
・黒川紀章:対立関係を解決するためには、二項対立的な関係ではなく、対立を含んだまま共生する理論の必要性。
・将来の仏教が語るべき共生の思想の視座と方向性:「きょうせい」(symbiosis)という異なった集団と集団の間の共生の視点と、「ともいき」(conviviality)という個人と個人あるいは個人と集団の共生の視点の間に、避けがたく存在する対立、関係、緊張関係の視点を、一方で見失うことのない共生観」
・近代思想と共生の在り方 共生を国家関係ではなく、文化と文化の関係で理解
・「共生」概念の「生」の概念を取り上げ、権力構造のもと、意味ある「生」をもつためには主体性の確保が不可欠、主体性確保のための意識の在り方、意識的取り組みの必要性
・西ドイツ時代の対外文化政策の問題点:「いつかは帰国する外国人」
・韓国の多文化教育:韓国のアイデンティティ強化の発想
・アメリカの多文化教育:9.11以降の逆行 社会としての制度的な改革の実践の必要性
・色濃く横たわる先進国と途上国の格差問題 貧困と環境問題、先進は途上国を踏み台にして現在の豊かさを手に入れた。倫理的にも先進国の正義への要請
・長期的には、物質消費に依存しないライフスタイルとそのような生活に幸せを感じる新たな価値観の創造が欠かせない。
・なぜ、異なる文化や民族が互いに受け入れあるべきなのか。この問いは、平和概念と緊密に絡まっており、なぜ、共生しなければならないのかと同様に、なぜ、戦争や物理的な暴力はさけなければならないのかとの問いが存在する。いかなる悪が生み出されたとしても、それは必要悪であり、それ以上の善の創出がみこまれるのであれば、その悪、戦争もまた肯定されるという理屈で一蹴される。
・フランスの哲学者フーコー:近代の支配構造としての統治性の概念:人々は、国家の発展のために、生産性を高める道具と化し、支配される側がその支配の仕組みを受け入れる。人々は、画一化され、個々の特殊性が抽象的な普遍性へと移し替えられる。全体主義、ナチズム、ホロコーストは、生産性の向上の論理が、生産に役に立たない人々に対する抑圧をもたらす。支配される側がその支配の仕組みを受け入れれば、国家は安定するが、思いもよらない暴走の危険性をもつ。異なる価値観や生活習慣を背景とする多文化の存在それ自体が、画一化した社会による暴走を防ぐ可能性をもっている。多文化間の共生は、社会の暴走やホロコーストのような悪を抑圧するという意味で正義なのである。多文化共生は余裕のある人々による寛容さを基盤としたリベラルな言説などではなく、社会における公共性を担保するための厳格な政治的欲求であり、余裕の有無を問わない社会全体を貫徹すべき規範として位置づける必要がある。
・「多文化共生でいう「文化間の差異」について、マジョリティがすでにイメージを決めており、マジョリティによりイメージされた「異文化」を体現することをマイノリティが要求されている。」という。
・「共生」は、共に生きることを意味するが、問題はその「生」がどのような生の様式を意味しているかが問題である。市民としての「生」(マジョリティ側の生)が労働者としての「生」(マイノリティ側の生、文化の商品化を通した市場経済への参加という形のみでしか認められない生)を押し付けている。
・「共生」における「生」もまたすでに「善き生」(※マジョリティ側のいう「生」)として語り手によって一方的に語られ固定化されるものであるならば、それは「共生」でなく、「強制された生」である。本来の意味での「共生」は、一元化された「自己」と「他者」の解体という方法以外に達成することは不可能であろう。すなわち、恵まれた人々が市民としての生を享受し、他方で虐げられた人々が労働者としての生(文化の商品化を通した市場経済への参加という形のみでしか認められない生)しか生きることができない現状は倫理的にも望ましくない。それに代わってマジョリティ側の生とマイノリティ側の生との両方をすべての人々が体現するようにならない限り、「自己」は「他者」の「善き生」を定義し続けてしまうのである。そして、それは結局のところ「自己」による「他者」の支配を正当化することに他ならない。
・南米日系人:ガラスコップのシステム:経済危機以降の南米日系人の日本での生活や就労は、彼ら、彼女らを雇用する業務請負業者に依存した脆弱な生活をガラスコップに入れられた状態であると比喩に使われた。経済危機以降は、その影響を受け失業者や生活困窮者が増加する中で、脆くも成り立たなくなった。日本に残ることを選択した南米日系人が自分たちの環境を少しでも良くしようとする新たな動きが生まれたことは、今後の日本における「多文化共生」を考えるうえで、重要なターニングポイントになると注視している。
・マイノリティに対する政策だけでなく、当該社会のマジョリティからの支援や共感を得ることができる政策とそのための教育の重要性。その際、多様性の拡大(人種や民族だけでなく、ジェンダーや性的指向、宗教などさまざまな多様性を考慮に入れることで、多様性の意味が拡大する。そのことで、マイノリティからの異議申し立ての力を減じるという議論がある。)を危惧したり、選択的移民政策を全否定するような理想主義的な理念に偏るのではなく、マジョリティが抱く脅威感や負担への懸念を可能な限り取り除いた具体的政策の提示が求められる。
・実際に当該社会のマイノリティと個人的な関係を持つ機会を提供し、実際の個々人による交流の体験や当該社会でのマイノリティの歴史を重視した教育、平等と共に衡平を求める教育を提供する。
・共生をめぐる考察の1つとして、先進国と途上国の間に横たわる格差のうち、貧困と環境という2つの問題を取り上げる。先進国の発展は、途上国の資源を利用してきたことによってもたらされてきた。一方、途上国は、先進国が多大なエネルギーや物質を消費することによって生じた各種のしわ寄せを負わされている。
貧困にせよ、気候変動にせよ、途上国の自己責任を超えたところで問題は発生しているにもかかわらず、途上国の人々は負の帰結を負わされている。この非対称性は重要な倫理の問題を提起する。それゆえ、現状を是正し、より公平な姿に戻すという正義の要請がそこから生まれてくる。
・貧困にしても気候変動にしても、地球規模の問題を解決するためには、先進国の人々にかなりの負担が強いられ、今の快適な生活を手放すことが求められる。そのような犠牲の先に見える新しいライフスタイルが今より魅力的に見えなければ、今の今の生き方より望ましい生き方への転換は困難であろう。それは、地球規模の物質循環に見合った責任ある消費を体現するようなライフスタイルであろう。あり余るモノに囲まれるよりは、創造 性など人間本来の生き方を発揮するために本当に必要な財に囲まれた生活であろう。そこで望まれる社会は男女平等等を含む社会的公平が確保された社会である。人間の尊厳が守られ、災害などの非常時にも社会的弱者が泣き寝入りを強いられることがない、すべての生命に優しい社会であろう。そのような社会では、政治的に無力な者こそ強い保護が与えられるべきことを要請する人権理念が要請される。